章懐太子墓
From Wikipedia, the free encyclopedia
唐の高宗と武則天のあいだの子で、『後漢書』に注を加えたことで知られる李賢は、上元2年(675年)に皇太子に立てられた。しかし調露元年(679年)に政変を企てたとの罪で廃位され、巴州に流された。文明元年(684年)に自殺を強いられた。神龍2年(706年)、乾陵に陪葬された。墓には妻の房氏も合葬されている[1]。
章懐太子墓は乾陵に付属する17基の陪葬墓のひとつで、乾陵の東南約3kmに位置する。1971年7月から1972年2月にかけて発掘調査された[2]。
墓を囲む陵園は、縦180m、横143m。墓の全長は71mで、墓道・甬道・前室・後室の4部分で構成される。この墓で最も貴重な文物は色彩豊かな壁画50点で、「狩猟出行図」「客使図」「馬毬図」「儀仗図」「観鳥捕蝉図」などが知られる[3]。
「狩猟出行図」は狩場に向かう50騎あまりと2頭のラクダが隊伍を組んで林間を疾走する場面を描く。躍動感あふれる騎馬群像からは馬を駆る掛け声と鞭の音、馬の嘶きや馬蹄の響きが轟くかのようである。出行図のなかで一人だけ紫灰色の袍服を着用している騎乗者は墓主の李賢その人ではないかと考えられている。ただし、残念ながら頭部が失われているためその面影を窺い知ることはできない[4]。
東壁の「客使図」には6人の人物が描かれている。左の3人は外国使節を応接する官庁である鴻臚寺の官員、右の3人は李賢のもとに訪れた東方諸国から来貢した客臣と考えられる。墓道を挟む西壁の対称部分にも3人の官員と3人の客臣で構成される「客使図」が確認されている[5]。
「観鳥捕蝉図」には3人の女官と樹上の蝉が描かれている。左右の女官はともに高髻を結い、細袖の衫を着て長裳をはき、肩掛を羽織る。左側の女官は頭を傾けて右上に飛ぶ鳥を仰ぎ見ている。中央は双髻を結う男装の女官で、息を詰めて目の前の樹にとまる蝉を捕えようとしている[6]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 黄、朱 2003, p. 304.
- ↑ 小林岳「章懐太子李賢と李賢墓壁画」p.20。2026年3月29日閲覧。
- ↑ 黄、朱 2003, p. 305.
- ↑ 小林岳「章懐太子李賢と李賢墓壁画」p.24。2026年3月29日閲覧。
- ↑ 小林岳「章懐太子李賢と李賢墓壁画」p.26。2026年3月29日閲覧。
- ↑ 小林岳「章懐太子李賢と李賢墓壁画」p.30。2026年3月29日閲覧。
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。