長州藩士・堅田賢佐家臣・竹下純助の次男として生まれる。安政5年(1858年)頃、松下村塾に竹下琢磨(純助長男)と共に入塾した竹下幸吉は弥三郎に比定されている。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討に際しては、幕府方として出兵した小倉藩との戦闘が続く中、領民への被害拡大を避けるため、小倉藩が停戦・撤退を決断したことを受け、山縣有朋・時山直八・品川氏章・光妙寺三郎らとともに香春において小倉藩士と会見し、戦闘停止および講和交渉に関与した。
明治維新後は新政府軍に出仕し、明治4年(1871年)には乃木希典・遠藤守一・井街清顕らとともに少佐に任じられた。その後、明治7年(1874年)頃までに中佐へ昇進した。
明治7年、初代歩兵第9連隊連隊長に任命され、のち第3代歩兵第4連隊連隊長を務めた。また、西南戦争には陸軍中佐として従軍している。
官歴の末期には、正六位・勲四等に叙され、仙台鎮台歩兵第四連隊長を務めた。明治11年(1878年)4月(または9月)、仙台元荒町の自宅において病没。享年36。墓所は仙台小田原陸軍墓地にある。