歩兵第4連隊
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歴史
連隊の発足
仙台城には1871年(明治4年)から東北鎮台が置かれていた。これが1873年(明治6年)に全国6鎮台の一つとしての仙台鎮台に改組したとき、従来の2番大隊(8個小隊)にかえて、歩兵連隊を置くことになった。1874年(明治7年)に榴ヶ岡に歩兵営が建てられ、仙台城から2番大隊が移転した。続いて1875年(明治8年)に歩兵第4連隊が発足した[1]。鎮台司令部が仙台城、連隊が榴ヶ岡、と場所を分けたのは、仙台城の地形に理由がある。仙台城は前を広瀬川、背後を山に拠る要害だが、川の氾濫時に交通途絶し、部隊が出動できなくなるおそれがあった。そのため、川を隔てて街道に近い榴ヶ岡に連隊を置いたのである[2]。
制度上、1個連隊は3個大隊からなるが、発足時の歩兵第4連隊は第1大隊だけであった。2年目の1876年(明治9年)4月に、第1大隊を分割して第2大隊を作った[3]。第1大隊が第1から第4の4個中隊、第2大隊も同様に第1から第4の4個中隊である。3年目の1月に西南戦争が勃発したとき、第4連隊はこの2個大隊の編成であった。
西南戦争
1877年(明治10年)の西南戦争では、第1大隊の全力と、第2大隊の第3、第4中隊が出征した[4]。第2大隊の第1、第2中隊は留守になり、戦争中に第3大隊を編成した[5]。
西郷隆盛挙兵の報に接したとき、陸軍は反乱が全国に拡大することを警戒しており、仙台鎮台も管内の情勢に神経をとがらせた。第1大隊は不穏な噂があった山形に行軍して、また戻った。
この戦争で鎮台や連隊はそのまま出動することなく、兵力の一部を抽出して戦地にある旅団に配属させた。旅団はそうした小部隊を司令部の下に組み込んで作った臨時編成の部隊で、戦局に応じて兵力が変化するものだった。歩兵第4連隊からは、山地元治連隊長が3月19日に大阪に向かい、連隊指揮から外れて司令部要員になった[6]。
第2大隊の第3、第4中隊は、20日に命令を受け、将兵354人が21日に塩釜港から出港し、東京を経て29日に大阪に入り、30日に別働第4旅団に配属された[6]。即日出発し、神戸から海路で長崎を経由して4月6日に宇土郡網田村に上陸した[6]。熊本城で足止めされた西軍の背後をつく作戦の一環である。別働第4旅団は人吉盆地方面から来る西軍に対して上陸軍の背後を守る位置につき、2個中隊は、4月に現在の八代市域で何度か交戦した[7]。熊本城をめぐる攻防が西軍の退却で一段落した後、5月6日に別働第4旅団は解散して、所属部隊は別働第2旅団に配属された[8]。第4連隊第2大隊第3中隊と第4中隊は、旅団のもとでそれぞれ第25中隊、第26中隊と呼ばれることになった[8]。7月まで、起伏に富む熊本県中部・南部の各所で攻防が続き、両中隊もたびたび戦闘に入った[8]。続く宮崎県から鹿児島県への追撃戦、最後となった9月24日の城山の戦いまで、戦闘を重ねた[9]。
第1大隊の出征はやや遅れ、3月30日に756人が陸路で東京に向かい、4月12日に東京に着いた[6]。海路をとって6月4日に大阪着。7月25日に新撰旅団に配属され、7月28日、戦争の終わり近くになって戦地に入った[8]。宮崎県から鹿児島県まで追撃し、城山の戦いで戦争を終えた[9]。第2大隊の2個中隊と第1大隊の全参加将兵のうち、13人が戦死し、77人が負傷した[9]。
その他戦争
復員とその後
第2次世界大戦の後、帝国陸軍の解体にともなって、歩兵第4連隊は復員(解散)した。連隊の兵舎は終戦後に進駐軍が利用した。返還後、一部が国家地方警察(現・警察庁)に引き継がれて東北管区警察学校となり、一部が東北学院榴ヶ岡高等学校の校舎となった。仙台市が1975年(昭和50年)に榴岡公園を拡張整備することになり、どちらも移転した[10]。兵舎は一つを除いてすべて壊され、1977年 (昭和52年)に旧第11中隊兵舎が旧第4中隊の位置に移された[10]。仙台市は、1904年(明治37年)当時、すなわち日露戦争のときの外観を復元し、1978年(昭和53年)6月16日に市の有形文化財に指定した[10]。宮城県内に現存する最古の擬洋風建築であり、建物は仙台市歴史民俗資料館として公開されている。
年表

- 1875年(明治8年)9月9日 - 二番大隊から改組。軍旗拝受
- 1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍
- 1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
- 1922年(大正11年)6月 - 南樺太守備
- 1931年(昭和6年)4月 - 満洲駐剳、満洲事変にともない長春、寛城子、南嶺、吉林、チチハル、ハルビン、敦化などに転戦
- 1933年(昭和8年)1月 - 帰還
- 1937年(昭和12年)4月 - 満洲駐剳
- 1938年(昭和13年) - 徐州会戦
- 1939年(昭和14年) - ノモンハン事件
- 1940年(昭和15年) - 帰還
- 1941年(昭和16年)3月1日 - ジャワ島メラク湾から上陸、同月13日バンドン入城
- 1942年(昭和17年) - ガダルカナル島の戦い
- 1944年(昭和18年)5月7日 - マニラ到着
- 9月 - ジャワ島東部およびバリ島の守備
歴代連隊長
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 永井勝正 | 1875.5.5 - | 少佐 |
| 2 | 山地元治 | 1875.12.8 - 1877.3.14 | 中佐 |
| 3 | 竹下弥三郎 | 1878.1.21 - | 中佐 |
| 4 | 大沼渉 | 1878.11.21 - | 中佐、1882.2.大佐 |
| 5 | 川村景明 | 1882.2.25 - | 中佐 |
| 6 | 井関正方 | 1885.5.26 - | 中佐 |
| 7 | 仲木之植 | 1886.5.27 - 1896.3.11 | 中佐、1887.4.大佐 |
| 8 | 内藤之厚 | 1896.3.27 - 1897.4.24 | |
| 9 | 馬場命英 | 1897.5.11 - 1902.11.7 | 中佐、1900.10.大佐 |
| 10 | 古谷安民 | 1902.11.7 - 1903.3.21 | 中佐、1902.11.15大佐 |
| 11 | 山本信行 | 1903.3.21 - | |
| 12 | 吉田貞 | 1904.7.10 - 8.26 | 中佐、戦死後大佐 |
| 13 | 河内礼蔵 | 1904.8.28 - 1905.3.1 | 中佐、戦傷 |
| 14 | 大島新 | 1905.3.9 - 1906.2.19 | 少佐、中佐昇進 |
| 15 | 河内礼蔵 | 1906.2.19 - 1911.9.6 | 中佐、1907.11.大佐 |
| 16 | 緒方多賀雄 | 1911.9.6 - 1914.8.10 | |
| 17 | 菱刈隆 | 1914.8.10 - 1916.4.1 | |
| 18 | 富田鶴之助 | 1916.4.1 - 11.15 | |
| 19 | 柴山重一 | 1916.11.15 - 1917.8.6 | |
| 20 | 奥村拓治 | 1917.8.6 - 1918.7.24[11] | |
| 21 | 三輪秀一 | 1918.7.24 - 1920.2.21[12] | |
| 22 | 伊藤久太郎 | 1920.2.21 - | |
| 23 | 三木宗太郎 | 1923.8.6 - | |
| 24 | 高城荘吉 | 1926.3.2 - | |
| 25 | 大島陸太郎 | 1929.8.1 - | |
| 26 | 森尻伊祐 | 1932.4.11 - | |
| 27 | 石原莞爾 | 1933.8.1 - 1935.8.1[13] | |
| 28 | 鈴木宗作 | 1935.8.1[13] - | |
| 29 | 酒井直次 | 1937.3.1 - | |
| 30 | 三浦忠次郎 | 1938.7.15 - | |
| 31 | 杉野巌 | 1939.8.1 - | |
| 32 | 福島久作 | 1941.3.1 - | |
| 33 | 中熊直正 | 1942.4.1 - 11.3 | 戦死 |
| 34 | 鈴木章夫 | 1942.11.16 - | |
| 末 | 一刈勇策 | 1943.6.14 - |