竹中繁

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 竹中 シケ[1]
1875年11月1日
東京神田淡路町
死没 (1968-10-29) 1968年10月29日(92歳没)
別名 竹中 繁子[2]
出身校 女子学院
たけなか しげ
竹中 繁
竹中繁宅で開かれた「一土会」の集まり(中央右、1932年4月)
生誕 竹中 シケ[1]
1875年11月1日
東京神田淡路町
死没 (1968-10-29) 1968年10月29日(92歳没)
別名 竹中 繁子[2]
出身校 女子学院
職業 ジャーナリスト
雇用者 東京朝日新聞
テンプレートを表示

竹中繁(たけなか しげ、1875年11月1日 - 1968年10月29日)は、日本のジャーナリストであり、東京朝日新聞初の女性記者である[1][2]。明治から昭和期にかけて、女性の人権問題を取材・執筆するとともに、日中間の相互理解と女性の連帯に取り組んだ[2][3][4]

生い立ち

東京神田淡路町に生まれた[1][3]。父は司法省の役人で、その方針により早くから英語教育を受けた[1][3]麹町に開校したキリスト教系の桜井女学校(のちの女子学院)に進学し、初代院長の矢嶋楫子のもとで学んだ[3][2]。1896年に女子学院高等科を卒業した[1][2]

卒業後の2年間は神戸で幼稚園の教師を務め、帰京後は外国人宣教師が経営する私塾ブラックマーホームに勤めた[3]。ブラックマーホームに英語を学びに来ていた鳩山一郎との間に、1907年に未婚のまま男児を出産した[3][2]。子は養子に出され、竹中は養家に養育費を送り続けた[3]。その後、女子学院で英語教師兼寄宿舎の舎監となり、日本基督教婦人矯風会でも活動した[3][2]

東京朝日時代

1911年に東京朝日新聞へ市内通報員として入社し、翌1912年に正社員となった[1][2]。学芸部で主に女性問題を担当し、55歳の定年まで勤め、退職後も寄稿を続けた[1][2]。男性記者たちと顔を合わせないよう机を窓に向けていたことから、社内では「窓の女」と呼ばれた[3][2]

1915年には女性有志とともに婦人記者倶楽部を設立した[2][3]。1916年には連載「女が観た私娼問題」を執筆し、公娼制度下で私娼と呼ばれた女性たちの生活難と置かれた境遇を報じた[2][3]。1920年には市川房枝平塚らいてう奥むめおらが発起人となって結成した新婦人協会の初会合に出席し、その後も市川の活動を支援した[1][2]

1923年には大阪朝日新聞社主催の婦人支那視察団に参加して中国を訪れた[3]。1926年には中国旅行を願い出て会社の許可を得て、社の派遣ではなく自費で半年近く中国を旅行し、北京、天津、上海、南京、漢口、香港、広州などを訪れて女性指導者や記者、教育関係者らと面会した[5][6]。旅行後は日本と中国双方の新聞・雑誌に寄稿し、中国女性の運動、教育、職業問題、日本の女性運動の状況などを相互に紹介した[5][6]。1926年には奉天のベビーボックスも取材した[2]

1928年には朝日新聞社主催で「月曜クラブ」を立ち上げ、市川房枝、平塚らいてう、村岡花子林芙美子らを交え、産児制限や国際情勢などを議論する場をつくった[7][4][3]。1930年に東京朝日新聞を退社した[1][7]

退社後

1931年には中国理解と在日中国人留学生との交流を目的として一土会を設立した[7][4][3]。退社後も日中双方の雑誌・新聞に寄稿を続け、日本の媒体には中国女性を、中国の媒体には日本の女性運動や社会状況を紹介した[5][6]。1940年2月には市川房枝とともに再び中国を訪れた[8][5]

1941年に千葉県市原郡鶴舞町へ移り、戦後は地域で英語を教えながら、市川房枝の政治活動を地域の女性たちとともに支援した[9][5]。晩年に連載した「私の人生劇場」では、自身を「劇場の黒衣の見習いぐらいの者」と位置づけ、周囲の人々への感謝の言葉を残した[5]。1968年10月29日に92歳で死去し、遺言により遺産は老人福祉のための基金に充てられた[1][9]

評価

関連文献

脚注

Related Articles

Wikiwand AI