笠井庄兵衞
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| 笠井庄兵衞 かさい しょうべえ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1828年 |
| 出生地 |
(現・東京都) |
| 没年月日 | 1889年7月10日 |
| 選挙区 | 麻布区選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1889年6月 - 1889年7月10日 |
笠井 庄兵衞 (かさい しょうべえ、1828年〈文政11年3月〉- 1889年〈明治22年〉7月10日[1])は、日本の政治家、資産家、実業家、慈善家、地主。東京府会議員[2][3]、東京市会議員を務めた[2][3]。縁戚に旧皇族の伏見宮敦子女王(伏見宮博恭王第2王女)らがいる。自らの資財をも支出し、麻布区内の公立学校(今の幼稚園や小学校)の設立を積極的に呼びかけた[4]。現在に至る麻布区内の下水道の基礎を作り上げた1人である。
東京府出身。1875年(明治8年)、第一大学区第二中学区第十五番小学(現港区立麻布小学校)の設立を呼びかけた[4]。1879年(明治12年)9月、麻布区初代区長の前田利充ら5人と下賜金を主にして水道を開設することを企画し、華族10名の願書を添えて東京府知事の許可を請願した。計画は麻布、赤坂、芝の3区に給水するものだったが、発案した麻布区が工事を施行し、2万円の予算(内訳は1500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16700円、不足分は区の共有金から支出)であった。1880年4月に府知事の許可を得た麻布水道工事を府に委託し、翌年11月着工、翌1881年に完成した。1884年には、芝麻布共立幼稚園の協力賛成者となり、前期の第十五番小学校と併せて麻布区内の教育にも力を入れた[4]。
1887年(明治20年)の所得税調査委員選挙時代には地価681円を保有しており、庄兵衞は現在の金額に換算すると土地代で年間1362万円を払っていたことになる[2]。 また、中規模地主でありながら質屋を経営しており、骨董品などの展示も行っていた。1889年(明治22年)6月に、麻布区選出の東京市議会議員となるが、当選のおよそ1ヶ月後に死去した[1][5][6]。
なお、当時の所得税調査委員には、「名誉職」という社会的地位の高さを示す称号が付与された 。東京電燈の株主第7位として70株全体の3.5%を保有した。栗原編(1964)[7]によれば当時の物価は米1石7円。(2000株×100円)で20億円のため、現在の価値で1400万円。また、東京商工会議所の会員として渋沢栄一らと交友関係があった。