第1回世界人種会議
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世界人種会議集合写真(1911年、帝国研究所) | |
| 現地名 | First Universal Races Congress |
|---|---|
| 日付 | 1911年7月26日~29日 |
| 期間 | 4日間 |
| 会場 | ロンドン大学 |
| 場所 | 英国 |
| テーマ | 反人種差別 |
| グスタフ・シュピラー | |
| 関係者 | 2,100 |
第1回世界人種会議(だいいっかいせかいじんしゅかいぎ、英: First Universal Races Congress)は1911年、反人種差別運動の初期の取り組みとして、ロンドン大学で4日間にわたって開催された。世界各国から集まった講演者たちは、人種間関係の現状とその改善方法について議論した[1]。この会議には当時の著名なヒューマニストたちによって組織され、2,100名が参加した。この構想は、1906年にフェリックス・アドラーが行った発言を契機として生まれ、主に英国倫理連合(現:ヒューマニストUK)の指導者グスタフ・シュピラーによって実行された。会議の議長はフィリップ・スタンホープが務め、ウィリアム・ペンバー・リーブスが執行委員会の議長を担当した[2]。
取り組み
会議の招集通知には以下の記述が含まれていた。
科学と現代の倫理観に照らして、西洋諸国と東洋諸国、ならびにいわゆる「白人」社会といわゆる「有色人種」社会の間に存在している全般的な関係性について考察し、これらの人々の間でより深い理解、最も友好的な感情、そしてより緊密な協力関係を促進することを目的とする。…近年、人類諸人種間における物質的・その他の富の交流はかつてない規模に達しており、従来の相互不信と隔たりの姿勢は、より親密な交流を求める真摯な願望へと変わりつつある。この興味深い状況から生まれたのが、異なる人種の代表者たちが直接顔を合わせ、友好的な競争精神のもと、西洋と東洋、ならびにいわゆる「白人」社会といわゆる「有色人種」社会の間における相互信頼と尊重の理念をさらに発展させるための会議を開催するという構想である。[3][4]
50カ国以上と20の政府が代表を派遣し、その結果58の論文が5種類に分類された[3]
- 根本的な考察
- 進歩の条件
- 人種間経済と文明間の平和的接触に関する問題
- 人種問題に関する良心
- 人種間関係の促進に向けた提言
会議の結果として採択された決議は[3]
- 人類の諸集団間の調和的な関係の確立が、戦争を減らし仲裁の実践を広げるあらゆる試みの前提条件であることを強く訴える。
- 異なる人種に属する個人が互いに接触する際には、礼儀正しく敬意を払った行動と、他民族の習慣や文明の研究を推奨する。あらゆる文明は多くのことを教えるものであり、その深い歴史的根源のために尊重されるべきである。
- 文明の差異は、劣等性や優越性を意味するものではないことを強調する。
- 人種混交の身体的・社会的影響、およびそれを促進(あるいは阻害)する要因を研究すること。
- 各国政府に対し、この主題に関する統計を収集し、性急で粗雑な一般化を控えるよう要請すること。
- 世界の人々の間に蔓延する、自らの習慣・文明・体格が他民族より優れているという信念の非合理性を指摘し、「人種」という用語の安易な使用を戒めること。
- あらゆる地域において、身体的・知的・道徳的な普遍的かつ効率的な教育制度を整備することが、人類のあらゆる分断を超えた友好関係を促進する主要な手段であることの重要性を訴えること。
- 移民の経済的・衛生的・教育的・道徳的基準を、不変のものとして非難するのではなく、尊重し(あるいは同化・変革に努め)、比較的遅れた人々の生活水準を人道的に向上させた実験記録を収集し、その手法の普遍的適用を促すこと。
参加者

フェリックス・アドラーは、当時「米国教育局」と呼ばれていた組織の代表として出席した[2][5] 。人種差別に公然と反対していた人類学者フランツ・ボアズは「人類類型の不安定性(英: The Instability of Human Types)」と題する講演を行い、人種という概念そのものと人種的純粋性の概念に疑問を投げかけた。英国の人類学者・民族学者アルフレッド・コート・ハドソンは、科学雑誌『サイエンス』にこの会議に関する論文を寄稿した[6]。比較宗教学の研究者でブラフモ・サマージの支持者であったベンガル人哲学者ブラジェンドラ・ナート・シールは、「人種の起源(英: Race Origin)」と題する講演を行い、ヒト進化遺伝学における集団の分岐概念と、生殖的隔離がもたらす影響について論じた[7]。作家・医師・改革者であり、サンティー・スー族とアングロ・アメリカ人の血を引くチャールズ・イーストマンは、政治活動家としてまたネイティブ・アメリカンの権利擁護者として、この会議にアメリカ先住民を代表して参加した[8]。サラ・J・ガーネットは、姉妹のスーザン・マッキンニー・スチュワードに同行し、スチュワードは「有色アメリカ女性(英: Colored American Women)」と題する論文をこの会議で発表した[9]。先駆的な医師であるフランシス・ホガンも講演した[10]。W・E・B・デュボイスは、この会議が「人種」という概念に関する科学的知見の現状を明らかにする場となり得ると指摘し[11]、「アメリカ合衆国における黒人人種(英: The Negro Race in the United States of America)」と題する自身の論文を発表した。NAACPの共同創設者であるメアリー・ホワイト・オヴィントンも出席しており、アフリカ教会の自治を主張するモジョラ・アグベビが論文を発表した。ウィリアム・サンダース・スカーボロは、米国初のアフリカ系アメリカ人が所有する大学であるウィルバーフォース大学の代表として出席した[12]。バハイ教の指導者アブドゥル・バハーは講演者として招聘され、代表者を派遣するとともに、複数のバハイ教徒による論文[13]とプレゼンテーションが行われた。その他の宗教分野の講演者としては、トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ、加藤玄智、アルフレッド・コールドコットらが登壇した[14]。会議の第2回会合において、イラン代表のヤヒヤ・ダウラットバディは、今後開催される各会議をそれぞれ5つの大陸で開催することを提案した。参加者は、人口不足を理由にオーストラリアに対する少数の反対を除き、合意した。
この会議で発言しなかった参加者にも、現在および将来の社会改革者が数人いた。ハル・ハウスの創設者ジェーン・アダムス、心理学者ジョン・デューイ、作家 H・G・ウェルズ、そして南アフリカのヨハネスブルグで「弁護士(英: barrister-at-law)」として登録されていたマハトマ・ガンディーらである。
会議の後、ドゥセ・モハメド・アリはロンドンで『アフリカ・タイムズ・アンド・オリエント・レビュー』を創刊した。創刊号は「アングロサクソン世界の首都で開催された最近の世界人種会議は、大英帝国の中心地に汎オリエンタル・汎アフリカの雑誌が十分に必要であることを明らかに示した」と宣言した[15]。