筒井順斎 From Wikipedia, the free encyclopedia 筒井 順斎(つつい じゅんさい、天文20年〈1551年〉? - 慶長15年8月3日〈1610年9月19日〉)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、旗本。父は福住順弘とされる。仮名は藤六郎、官途は紀伊守[1]。諱ははじめ俊勝(としかつ)、のち政行(まさゆき)[1]。 福住順弘の二男として生まれたという[1][2]。母は筒井順昭の娘で、順斎は筒井順慶の養子になったとされる[1][2][注釈 1]。 徳川家康に仕え、大和国福住で5,000石を領した[1][2]。数々の功を上げ、家康の妹・市場姫を妻とし、粉粧料として武蔵国足立郡に1,000石を得た[1][2]。 慶長5年(1600年)の上杉征伐に従軍[1]。下野国小山で石田三成挙兵の報が入った際、大和に向かい筒井定次・柳生宗厳と示し合わせて忠節を励むよう命じられる[1]。 慶長10年(1605年)9月より伏見城西御門の番を務めた[1]。 「慶長郷帳」には山辺郡内の領主として「筒井紀伊守」の名があり、順斎を指すとみられる[2]。 慶長15年(1610年)8月3日、死去[1]。享年60、または64ともいう[1]。 順斎の跡を継いだ子の正次は、大坂の陣の際、郡山城を守り切れずに自害[1][2]。その後も筒井氏は旗本として続いている[2]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『寛政重修諸家譜』では、順斎が福住順弘の子で順慶の養子であるという筒井家の呈譜は、順慶と順斎の年齢差が2歳差であるということから疑念が残るとされており、『寛永諸家系図伝』で順斎が順慶の弟である城介某の子とされるも、その後の呈譜に城介の姿が見えないことなどから、順斎は筒井氏嫡流から古くに分かれた筒井氏支族の出である城介の子と推測されている[3]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 『寛政重修諸家譜』巻千九十七(『寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、701-702頁)。 1 2 3 4 5 6 7 朝倉弘『奈良県史 第十一巻 大和武士』名著出版、1993年、431-432頁。ISBN 4-626-01461-5。 ↑ 『寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、700頁。 表話編歴大和筒井氏当主宗家 順覚 覚順 順弘 順永 順尊 順賢 順興 順昭 順慶 定次 定慶 | 断絶 順斎流 順斎 正次 正信 政勝 政明 政虎 政悦 正盈 政憲 政循 Related Articles