米山梅吉記念館

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正式名称 米山梅吉記念館
事業主体 公益財団法人米山梅吉記念館
延床面積 1,026㎡
開館 1969年9月16日
米山梅吉記念館
米山梅吉記念館外観(2025年4月28日撮影)
米山梅吉記念館の位置(静岡県内)
米山梅吉記念館
静岡県内の位置
施設情報
正式名称 米山梅吉記念館
事業主体 公益財団法人米山梅吉記念館
延床面積 1,026㎡
開館 1969年9月16日
所在地 411-0941
日本の旗 日本・静岡県駿東郡長泉町上土狩346-1
位置 北緯35度8分28秒 東経138度54分15秒 / 北緯35.14111度 東経138.90417度 / 35.14111; 138.90417座標: 北緯35度8分28秒 東経138度54分15秒 / 北緯35.14111度 東経138.90417度 / 35.14111; 138.90417
最寄駅 JR三島駅
最寄IC 新東名高速道路 長泉沼津IC
プロジェクト:GLAM
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公益財団法人米山梅吉記念館(こうえきざいだんほうじん よねやまうめきちきねんかん)は、静岡県駿東郡長泉町上土狩に所在する記念館および公益財団法人である。日本の実業家であり、日本におけるロータリークラブ創設者の一人として知られる 米山梅吉の業績と思想を顕彰することを目的として設立された[1][2]

記念館は米山梅吉の旧邸宅跡地に建てられており、日本のロータリー運動の歴史や米山梅吉に関する資料の収集・保存および公開を行っている[3][4]

米山梅吉は、日本における ロータリークラブ 創設者の一人として知られ、日本のロータリー運動の発展に大きく貢献した人物である。

米山梅吉記念館はその功績を顕彰するため、1969年(昭和44年)に財団法人として設立され、同年9月に開館した。新館となる現在の記念館建物は旧米山邸の跡地に新築された鉄筋コンクリート造3階建てで、延床面積は1,026平方メートルである。

館内では米山梅吉の生涯や思想、日本のロータリー運動の歴史に関する資料が展示されているほか、講演会や研究会などの事業が行われている。

尚、1969年(昭和44年)に開館した最初の記念館建物は、現在米山文庫こども図書館として利用されている。[5]

アクセス

  • 静岡県駿東郡長泉町上土狩346-1
    • JR東海道新幹線・東海道本線 伊豆箱根鉄道線 三島駅 2.1km
    • 新東名高速道路 長泉沼津IC 5.4km
    • 東名高速道路 沼津IC 6.2km

沿革

  • 1967年(昭和42年)2月 米山別邸保存会設立
  • 1969年(昭和44年)3月 財団法人米山記念館設立(静岡県教育委員会所管)
  • 1969年(昭和44年)9月 米山記念館落成・開館
  • 1981年(昭和56年)8月 米山記念館から米山梅吉記念館に名称変更
  • 1996年(平成8年) 2月 館新館建設委員会発足
  • 1998年(平成10年)4月 米山梅吉記念館新館落成
  • 2011年(平成23年)公益法人制度改革に伴い公益財団法人へ移行、公益財団法人米山梅吉記念館となる
  • 2026年(令和8年) 東京事務所開設にともない内閣府所管としての認定を受ける[5]

施設

記念館の建物は鉄筋コンクリート造3階建てで、延床面積は1,026平方メートルである。1階にはロビー、多目的ホールの他会議室、事務室、応接室などを備える。2階には3つの展示室の他収蔵品を所蔵する書庫を備え、3階には倉庫とテラスがある。

館内では米山梅吉に関する資料、日本のロータリー運動の歴史資料などが展示されている。

来館者数

設立の経緯

記念館の設立には、日本各地のロータリークラブ関係者が関わった。主な関係者として、静岡ロータリークラブの鱸正太郎、沼津北ロータリークラブ(以下RC)の小林完、三島RCの土屋新作、瀬川篤、松本重造、沼津RCの保志遠平らが設立に大きく関与した。

米山別邸保存の動き

米山梅吉は、幼少期を過ごした故郷長泉に強い思いがあったが、当時米山家の屋敷は現在米山梅吉記念館の建つ長泉町上土狩にあり、最寄り駅の三島駅(現在の下土狩駅)[注釈 2]から直線距離約1.5kmあり活動の拠点が東京の米山梅吉には不便であったため、1909年(明治42年)三島駅近くの長泉村(当時)下土狩に約3,093坪(登記簿上)[注釈 3]の土地取得、1917年(大正6年)に木造2階建て、1階42坪、2階20坪の屋敷を構え別邸として使用、晩年はこの別邸で過ごすことが多く終焉の場所でもあった。この土地は米山梅吉1946年(昭和21年)4月28日に死後、嗣子米山桂三が家督相続、1951年(昭和26年)5月、多くが売却の後、1966年(昭和41年)6月に不動産会社に移り、分譲に付される情報が三島RCの会員の土屋新作によってもたらされる。これにより、周辺のロータリークラブ会員数名により米山別邸保存の動きが始まる。米山梅吉に由緒ある家屋敷を手に入れ、ロータリアンのため保存をしようというものであった。中心となったのは静岡RC会員の鱸正太郎である。鱸はこの直前1965-1966年度の国際ロータリー第359地区(神奈川県静岡県山梨県)のガバナーを務めており、その立場から保存運動の代表的な役割となり、鱸をはじめ地元ロータリークラブ有志による「米山別邸保存会(仮称)」が立ち上がる。発起人は鱸の他、沼津RC保志遠平、三島RC瀬川篤、伊豆長岡RC松本重造、沼津北RC小林完が名を連ねた。保存対象は、別邸敷地の内、340坪の土地と2階建て約60坪の建物であったが、当時でも入手には千数百万円を必要とした。

米山桂三への説得

1967年(昭和42年)2月、保存会は趣意書を作り、当時の第359地区ガバナーの白山源三郎の賛同を得て、静岡県東部の沼津、熱海、吉原、伊東、三島、沼津北、下田、富士、富士宮、熱海南、伊豆長岡の11のロータリークラブに呼びかけ、同時に第359地区のニュースレター昭和42年3月号にも掲載された。この結果、約450万円の募金が得られる見込みとなったが、別邸取得には程遠く、すでに分譲も進められていた。ここで、方針を変え、米山本邸の土地に目を移した。米山本邸は、米山家先祖伝来のもので、米山家が所有し米山梅吉の死後、米山桂三の所有となっていた。この敷地の一角を借り、別邸の建物を移築、記念館にする計画とした。当初米山桂三は「日本のロータリークラブを創立したのは父だけの功績ではない。他の有力者の協力によるもので父のために計画してもらうのは本意ではない」として固辞していたが、地元の有志の熱意を了解し、土地の一部を提供するとの意向を示した。ただ、別邸は殆ど腐朽して余命短く移築は無理であろう、せめて米山家代々の長屋門を記念に残してもらえれば嬉しいとのことであった。その際、米山梅吉の遺品等について、火災で大部分焼失したが、残っているものは記念館に提供するとのことでもあった。

米山記念館設立準備委員会

こうして発起人はそのままとし、米山別邸保存会を米山記念館建設準備委員会と改め、新たに鉄筋コンクリート製の記念館を建設し、出入り口には本邸に残されている長屋門を原形のまま補修して使用する方針を決めた。1967年(昭和42年)7月7日、発起人と近隣ロータリークラブの会長・幹事との説明会をもつなどして理解につとめたが、目途の付いている資金では、長屋門の修理、敷地内の造園等を考えると、記念館の建物にまで予算が回らないことから、募金目標を1,600万円とし、広く全国に募ることとなった。当時、長泉町は沼津北RCがロータリーの区域であったことから、事務局は同クラブが担当、事務は幹事の遠藤永太郎がこれにあたった。1968年(昭和43年)5月24日、「財団法人米山記念館」建設準備会を発足させ、発起人は従前同様の鱸、保志、小林、瀬川、松本のほか、沼津北RCの松井謙一、三島RCの土屋新作、沼津RCの宇野三郎が加わった。事務局は宇野、土屋、遠藤が担当した。1968年(昭和43年)6月29日、8月13日の発起人会を経た後、8月21日には発起人代表を松井謙一とし、借用地の場所も決定した。同年10月29日、既に募金に応じてくれたクラブ、個人に中間報告をするとともに、全国のロータリークラブ、ガバナーに応募のお願いをし、法人設立申請時の1969年(昭和44年)3月18日時点には1,536万円となった。

財団法人米山記念館設立

財団法人設立にあたり監督庁との接渉、具体的な作業は、発起人の小林完が担当。予定する財団法人の所管庁は静岡県教育委員会である。1968年(昭和43)年11月16日、設立する財団の概要を決定、1969年(昭和44年)2月21日、「財団法人米山記念館設立発起人会」を開催、最終的に設立趣意書、寄付行為、役員、発起人代表を決定した。1969年(昭和44年)3月18日に設立許可を申請、3月26日認可。初年度役員は、1969年(昭和43年)6月30日までで、土屋を除く発起人がそのまま理事となり、監事には土屋と遠藤が就任。理事長は松井、常務理事には宇野が就任。事務所は、沼津北RCの事務局のある桃中軒内とし、事務は沼津北RCが担当した。

米山記念館建設

1969年(昭和44年)3月2日、地鎮祭が挙行、上棟は米山梅吉の命日の4月28日におこなわれた。長屋門は建築前、現在の新館敷地出入口部分にあったものを移築し、正面右側を管理人室、左側を書庫に改造。上棟式の後、同年8月末に完成、9月16日開館式をおこなった。[5][6]

開館後の運営

開館当初は来館者が少なく常駐の管理人が不要であったため、記念館隣の福昌寺住職 阿部勇禅氏に管理を依頼、事務局の沼津北RCに来館の申し出があると福昌寺に連絡、開錠、案内をいただいていた。開館から1年で来館は約150名であった。1993年(平成5年)に常置の管理人を置くことになる。

駐車場の新設

当初米山家から借り受けた敷地約150坪に記念館を建設したため、わずかな駐車場しか無かった。当時理事長の松井謙一(沼津北RC)が再三、米山桂三に地続きの土地の借用を依頼、1977年(昭和52年)2月2日、394.05坪の土地の借用、同年3月に駐車場施工、普通車9台、大型バス1台の駐車スペースの確保ができた。1998年(平成10年)の新館建設後は十数台分の駐車スペースが確保され、大型バスも駐車可能となる。2024年(令和6年)駐車場の改修をおこない合計20台程の駐車が可能となった[1]

春秋の例祭

旧記念館は、1969年(昭和44年)9月16日に開館の式典をおこなった。この9月16日を創立記念日とし、この日と米山梅吉の命日である4月28日に併せ、春・秋の例祭をおこなっている。

土地の取得

1979年(昭和54年)11月17日、米山梅吉の嗣子米山桂三が逝去、翌1980年(昭和55年)になって、米山桂三の遺族より、記念館建設当初借り受けた土地150坪を財団法人である記念館に寄附、これに接続する843.45坪について買い受けをとの申し出がある。単価は坪(3.3㎡)あたり10万円、総額8,434万円となる。当時の記念館の総資産は3,500万円ほどであったが、その3分の1は建物、構築物で、収入は昭和50年度で325万円、昭和51年度で247万円、昭和52年度で490万円、昭和53年度で342万円である。内訳は基本財産の運用益と利息などで100万円から150万円の他は寄附による収入であった。このような状況下で8,500万円もの土地代の捻出は困難を極めたが、1980年(昭和55年)4月1日、寄附申し入れの土地について寄附を受けるとともに、接続する土地について売買契約を締結した。代金8,434万5,000円の支払いは、1,000万円については速やかに、残金は3年間で支払う、所有権移転登記は代金完済のときとするが、半額を支払ったtきに所有権移転仮登記をおこなうというものであった。同年8月30日、1,000万円について三井信託銀行(当時)から借入金の承認を得てこれを支払った。残金については記念館の理事の他、それまで運営に関わったパストガバナー5人も発起人に加わり趣意書[注釈 4]を作成し、地元第262地区を中心に全国のロータリークラブに募金の依頼をおこなった。この結果、実質1年間で土地取得のための資金を集めることができた。

米山梅吉児童公園

1983年(昭和58年)9月16日、新たに取得した記念館に隣接する土地に米山梅吉児童公園が設置された。1983年(昭和58年)8月、230万円で施工され記念館開館記念日の9月16日開園式が行われ、記念館新館建設工事が始まるまで児童公園として使用された。

新館建設

1969年(昭和44年)の開館当初、年間150人程度であった来館者が1994年度(平成6年度)に2,528人に増加、手狭ととなってきたことから1995年(平成7年)8月、新館建設委員会が発足、翌1996年(平成8年)4月28日の理事会において建設計画、募金活動の開始を決定。1997年(平成9年)7月16日に地鎮祭が行われ建設開始。1998年(平成10年)4月28日に落成式が行われた。[5]

内観

脚注

関連項目

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