粟津キヨ
From Wikipedia, the free encyclopedia
- 1919年(大正8年) - 新潟県東頸城郡牧村(現在の上越市)原で、代々屋号「しちらえむさ」という「とうふや」であり、自身は大工であった金井佐平とチヨ夫妻の子として生まれる。
- 1928年(昭和3年) - 9歳の時、私立高田盲学校に入学[2]。
- 1937年(昭和12年) - 17歳の時、私立高田盲学校を卒業し、陽光会ホームに入る(1945年(昭和20年)まで)[3]。
- 1937年(昭和12年)4月29日 - 東京盲学校で行われたヘレン・ケラー歓迎会に出席。
- 1943年(昭和18年) - 東京女子大学に入学(1945年(昭和20年)まで在学)。
- 1944年(昭和19年)7月 - 静岡県に疎開[4]。
- 1946年(昭和21年)1月 - 静岡県富士宮市の点字出版社・富士根園に勤務[4]。
- 1948年(昭和23年)9月 - 日本盲女子連盟の初代委員長に選出[4]。
- 1951年(昭和26年) - 新潟県立高田盲学校で教鞭を執る。
- 1953年(昭和28年) - 傷痍軍人の夫と結婚し、のち二人の女の子に恵まれる。
- 1976年(昭和51年) - 新潟県立高田盲学校を退職、東京に移り住む。
- 1977年(昭和52年) - 東京女子大学時代の同級生と一緒に「失明女子を考える会」を始める[1]。
- 1986年(昭和61年)6月 - 尊敬する斎藤百合の生涯を描いた『光に向って咲け』〈岩波書店〉を上梓し、女性史青山なを賞、山川菊栄賞[1]、毎日出版文化賞を受賞する。
- 1988年(昭和63年)9月6日 - 肝癌のため、68歳で逝去[1][5]。葬儀と告別式は9月8日に日本基督教団下谷教会で行われた[1]。