粟野秀用
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陸奥国の出身[2]。藤原山蔭(中納言山蔭)から数えて12代目の子孫である伊達氏第3代当主・伊達義広(粟野次郎藤原義広)の後裔、粟野十郎左衛門尉宗次[3](粟野喜左衛門尉)の子で、出羽国二色根城主[4](現・山形県南陽市)。
当初は、伊達氏第17代当主・伊達政宗の家臣であり[5][6]、伊達小次郎の傳役も務めたが[7]、罪を犯し、死罪に処せられることを知って逃亡[8][9][10]。京都に出奔(天正18年[11])。その後、羽柴秀吉の勢力が急速に伸びていることを知り、尾張国へ赴いて秀吉に仕え、歩兵隊に加わった[12]。勇敢な働きによる軍功をあげて知行1万石を与えられ、中軍の前鋒役にも任じられた[13][14]。ほどなくして3万石を領し[15]、秀吉より「秀」の一字を与えられ、粟野木工頭秀用(あわのもくのかみ ひでもち)と称した[16]。これを聞いた政宗は激怒し、人を介して秀用を引き渡すように請うた[17][18]。しかし、秀吉は「彼は自ら私のもとに参じ、その来歴についても何ら隠すところなく申し述べた。そなたの配下として罪を犯したことは承知している。罪を知りながらこれを庇護することは道義に背くとの誹りを免れ得ないが、その心情を思えば、なお憫然たるものがある。加えて、当初より今日に至るまで、私のもとにあって重ねた功績も決して少なくない。私に免じ、これを宥し願う。」として拒否した[19][20]。 政宗は敢えてそれ以上求めず、秀用は益々忠勤するようになった[21]。
天正18年(1590年)における秀吉による天下統一の後、その功により10万石を加増され、伊予国征木城主(現・愛媛県伊予郡松前町)13万石にて伊予に入部し、従四位下として近侍した[22]。その後、関白秀次に転属、その重臣となり2万石を加増され、都合15万石を領するに至る[23]。この所領(天正18年に与えられた所領)の中には、西三河高橋郡池鯉鮒村(現・愛知県知立市)1,000石が含まれている[24]。
文禄4年(1595年)の秀次事件に連座して、京の三条河原にて斬首、または大雲院に入って秀次の無罪を訴えて自害した。この点、秀用の最期に関して、秀次事件に連座して自害したとされることが多いが[25][26][27][28]、市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』には、「石田三成によって虚偽の内容を秀吉に告げられ、おとしめられたことにより、秀用も謀反を企てたとされ、京の東山で自害した」とある[29]。戒名は真光院殿秀明居士[1]。この秀次事件に関し、政宗も秀用との種々の関係性から関与を疑われ、秀吉に対し釈明に追われることとなった[30]。
なお、前出『米沢事跡考』によれば、秀用には妻子がなかったと推定されるも、粟野家自体は断絶していない。
墓所
関連作品
脚注
出典
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年、82-83頁。
- 高柳光寿; 松平年一著『戦国人名辞典(増訂版)』 吉川弘文館、1981年、17頁。
- 戦国観光やまがた情報局「伊達家の武将たち」(山形おきたま観光協議会)「粟野秀用(あわのひでもち)」「粟野義広(あわのよしひろ)」「粟野喜左衛門尉(あわのきざえもんのじょう)」「粟野喜右衛門尉(あわのきえもんのじょう)」の項。
- 置賜城館名鑑「伊達な置賜四十八館」 「二色根館」(山形おきたま観光協議会)
- 山田近房著 千葉篤胤撰『市立米沢図書館デジタルライブラリー 米沢事跡考 (写本)』1736年(元文元年)、コマ番号44-45、野中森の項、二色根壘(にいろねとりで)の項。