590年前後頃に異母兄の押坂彦人大兄皇子と結婚。593年(推古天皇元年)頃に田村皇子(後の舒明天皇)、その後も中津王・多良王を儲けた。夫の押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子だったが、蘇我氏が勢威を振るっていた中、王位につけないまま死去した。
『日本書紀』によれば、額田部皇女(推古天皇)の代において、その従兄弟にあたる厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政として天皇を助けていた。そのため、長男の田村皇子には王位継承の可能性はなかったが、田村皇子が蘇我馬子の娘・法提郎女と結婚し古人大兄皇子を儲けたこと、厩戸皇子が先に死去したことなどもあり、明確な後継者の指定はされなかったものの、蘇我氏の力を背景に629年(舒明天皇元年)に即位(舒明天皇)し、糠手姫皇女は天皇の母となった。
641年(舒明天皇13年)に舒明天皇は崩御。その跡は山背大兄王や古人大兄皇子の異母弟の葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)など競争相手がいたためか、義理の孫・姪孫でもある舒明天皇の皇后・宝皇女(押坂彦人大兄皇子の孫娘)が即位(皇極天皇、後の斉明天皇)した。しかし、645年(皇極天皇4年)に乙巳の変で蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が滅ぼされ、彼らに擁立されていた古人大兄皇子もクーデターの首謀者だった葛城皇子、中臣鎌足に抹殺された。更に、654年(白雉4年)にはやはり姪孫にあたる孝徳天皇の崩御、658年(斉明天皇4年)には曽甥孫にあたる有間皇子の処刑、曽孫である建皇子の早世、661年(斉明天皇7年)には重祚していた斉明天皇の崩御と多くの近親者に先立たれ、白村江の戦いの敗戦直後、孫の葛城皇子(後の天智天皇)の正式な即位を見ないまま、664年に薨去した。なお、その時既に、玄孫にあたる大伯皇女・草壁皇子・大津皇子が誕生していた。
享年は不明だが、長男である田村皇子の有力生年や、蘇我氏・物部氏の二頭体制から白村江の戦いまでを生きていることから、当時としては長寿を全うしたと思われる。なお、葛城皇子の祖母にあたり飛鳥嶋宮に住んだことから、嶋皇祖母命と称された。