反正天皇
日本の第18代天皇
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略歴
大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第三皇子。母は葛城襲津彦の女の皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)・住吉仲皇子の同母弟で、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年、大鷦鷯天皇の崩御後、叛乱を起こした住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した。履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に去来穂別天皇が崩御し、翌反正天皇元年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に皇太子を立てないまま崩御。跡を弟の雄朝津間稚子宿禰尊が継いだ(允恭天皇)。
名
事績
誕生
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯並びであったので「瑞歯別」の名があるという。『古事記』によれば身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は歯の長さが1寸広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で上下等しく整っており、歯を褒め称えて「水歯」と名付けられたことによる。
『新撰姓氏録』によれば大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御世に、淡路宮で瑞歯別尊が誕生した際に、色鳴宿禰[注釈 1]が、淡路瑞井水で瑞歯別尊を濯いでいたところ、虎杖の花が湯の中に飛び入ったため、色鳴宿禰は、瑞歯別尊を多治比瑞歯別命とし(虎杖にはタジヒという別名がある[1])、諸国に丹治部を定め、瑞歯別尊の湯沐邑とすることを天神に奏上し、結果色鳴は宰相となり、丹比部を管理したという[2]。
住吉仲皇子誅殺
瑞歯別皇子が史書で具体的に登場するのは父の仁徳天皇が崩御した直後である。このとき次兄の住吉仲皇子が自分を長兄の太子去来穂別尊だと偽ってその婚約者である黒媛(葦田宿禰の娘、羽田矢代宿禰の娘の2説あり。履中5年に神の祟りで急死?)と奪う事件が起きた。これを知られた住吉仲皇子は反乱を企てて太子の宮殿に火を放ち、太子は命からがら石上神宮に逃げ延びた。それを知った瑞歯別皇子は太子を助けるためにかけつけたが、命を狙われ疑心暗鬼となった太子からは住吉仲皇子を誅殺してくるまで会えないと言われてしまった。
瑞歯別皇子は住吉仲皇子のいる難波へと向かった。そして住吉仲皇子の側近で隼人の刺領巾(さしひれ)(『古事記』では曽婆訶理(そばかり))へ大臣の位を餌として暗殺を唆した。これを真に受けた刺領巾は厠に入っている住吉仲皇子を矛で刺し殺した(従って本人は直接手を下していない)。任務を成功させたとはいえ、刺領巾(さしひれ)の行為は義にもとるものだった。そこで戻ってきた刺領巾とねぎらいの酒を酌み交わし、その頭が大きな杯で覆われた隙に剣で首を切り落としてしまった。
こうして去来穂別尊(履中天皇)の即位が確定し、瑞歯別皇子自身は太子となった。
即位
兄が在位6年で崩御したのち即位。在位5年で崩御。在位中の事績は残っておらず、後継者も指名しないままだった。『古事記』『水鏡』に60歳。『古事記』に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当。生年は逆算して、兄履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。弟の雄朝津間稚子宿禰皇子が後を継いだ(允恭天皇)。
崩御後は天皇の母である葛城磐之媛の兄弟、あるいは甥にあたる葛城玉田宿禰が5年にわたり殯をしてきたが、允恭天皇に役目を怠ったとして討たれており葛城氏没落のきっかけとなった。
また娘たちは允恭天皇の子の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に求婚されているが、乱暴すぎることを理由に断っている。
系譜
后妃・皇子女
年譜
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[3]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
