紀陟
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孫亮の時代に中書郎の職にあり、謀反の罪に問われた孫晧の父の孫和の取調べに当たった。この時、孫和に対し秘かに指示し堂々と弁明させたため、当時権力をもっていた孫峻に疎まれたという。
父が尚書令であったとき中書令にまで出世したため、朝会において二人の間に屏風が置かれたという逸話がある。後に地方に出て豫章太守となった。
当時の呉は孫晧へ代替わりしたばかりの時期で、交州を魏に奪われるなど弱体化していたため、魏は前に諸葛誕の乱のときに寿春で魏に降伏した元呉将の徐紹・孫彧に降伏勧告の手紙を持たせて呉に送った。元興2年(265年)3月、紀陟は光禄大夫として五官中郎将の弘璆と共に、魏の使者の送迎と孫晧から魏への返書を伴って使者となり赴いた。しかし、紀陟と弘璆が洛陽に着いて魏帝曹奐に接見したころ、ちょうど魏の相国司馬昭が亡くなったため、11月に2人は魏からおくり還された。
のちに、孫晧は孫和とつながりがあった者を全て東冶に強制移住させたが、紀陟だけは重用し、子の紀孚を都亭侯に採り立てている[2]。