緒明菊三郎
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船大工の棟梁の緒明嘉吉(おあけ かきち)の長男として伊豆国戸田村(現在の静岡県沼津市の一部)に生まれる。
1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督がフリゲート「ディアナ号」で下田に入港したが、同年12月23日(嘉永7年11月4日)に発生した安政東海地震に巻き込まれ、下田港内に停泊中だったディアナ号は津波で大破。修理のため戸田村へ回航したものの嵐に見舞われ航行不能となった末に、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまった。このためプチャーチンは帰国のために代船を新造することを決意し、幕府の了解を取り付けると、戸田で建造準備に着手した。これに伴い地元の船大工たちが建造作業に駆り出され、当時9歳の菊三郎も父・嘉吉に伴われ造船に加わる。その結果完成したのが日本最初の洋式船である君沢形の「ヘダ号」であった。
幕末まで苗字がなかったが、明治時代に入り平民苗字必称義務令の施行に伴い「緒明」の姓を名乗る。これは船大工で貧しかった頃、母が鼻緒作りの内職を明け方まで行っていたことに由来する。このため非常に珍しい名字となっている。1870年、東京府京橋区湊町に洋式の造船所を開業し、また副業として隅田川に架かる永代橋と両国橋間に小型の蒸気船を運航した。これはのちの「一銭蒸汽」の端緒を開いたともいわれている。しかし造船所が火災にあったため、1883年、当時陸軍省の所管であった品川沖第四砲台の跡地に大型木造船工場の「緒明造船所」を開き、事業を拡張した。同郷の上田寅吉から榎本武揚の知己を得た。榎本などとともに、日清戦争後の1897年6月、浦賀船渠株式会社の設立に参画した。平野富二の率いる石川島造船所と競争を重ねてゆくが、個人経営から造船工業の近代化に尽力したのである。
また戦争前後から海運業も営み、造船所で建造した「観音丸」を使用した。所有する汽船は3万トンに及んだ。邸宅を北品川に構え、入口の門を灯台の形にああやかり、この門を通して、第四台場にある緒明造船所を望見したという。緒明邸に至る道を緒明横町と呼んだ[2]。明治42年1月6日死去。65歳。墓所は東京都大田区の池上本門寺。また、沼津市戸田の生家跡には記念碑がある。
養子の緒明圭造は東京横浜電鉄取締役を務め、圭造の子の緒明太郎(1897 - 1984)も同社の取締役を務めた。また、太郎の養子の緒明泰平は静岡銀行取締役を務めた。