羊蹄丸 (初代)
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| 羊蹄丸(初代) | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 船種 | 車載客船 |
| 船籍 |
|
| 所有者 | 運輸省鉄道総局・日本国有鉄道 |
| 建造所 | 三菱重工神戸造船所[1] |
| 姉妹船 |
洞爺丸・摩周丸(初代) 大雪丸(初代) |
| 信号符字 | JTCP(JBIA)[2] |
| 経歴 | |
| 起工 | 1946年(昭和21年)11月7日[1] |
| 進水 | 1947年(昭和22年)8月20日[1] |
| 竣工 | 1948年(昭和23年)4月9日[1] |
| 就航 | 1948年(昭和23年)5月1日[1] |
| 終航 | 1965年(昭和40年)6月20日[1] |
| 要目 (新造時) | |
| 総トン数 | 3,896.17トン[1] |
| 全長 | 118.70m[1] |
| 垂線間長 | 113.20m[1] |
| 型幅 | 15.85m[1] |
| 型深さ | 6.80m[1] |
| 満載喫水 | 4.90m[1] |
| ボイラー |
三菱三胴型水管缶[3] 6缶 |
| 主機関 |
三菱神戸式 1段減速歯車付衝動反動タービン[4] 2台 |
| 最大出力 | 5,310軸馬力[4][1] |
| 定格出力 | 2,250軸馬力×2 [3] |
| 最大速力 | 17.52ノット [4][3][1] |
| 航海速力 | 14.5ノット[4][3] |
| 旅客定員 | 934名[4][3][1] |
| 乗組員 | 125名[3][1] |
| 車両搭載数 | ワム換算18両[3][1] |
羊蹄丸(ようていまる)は、運輸省鉄道総局ならびに日本国有鉄道(国鉄)青函航路に就航していた車載客船である。
青函連絡船復興のため、当時の国鉄であった運輸省鉄道総局がGHQの許可を受けて建造した洞爺丸型車載客船4隻の第2船で、同型船には洞爺丸、摩周丸(初代)、大雪丸(初代)があった。
1945年(昭和20年)7月14・15両日のアメリカ軍の空襲で、青函連絡船は一時壊滅し、8月15日の終戦時稼働できたのは、第七青函丸 、第八青函丸と、船舶運営会から傭船した大阪商船の樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン[5])の3隻だけであった[6]。しかし終戦直後、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、さらには食糧買い出しの人々が青函航路に殺到し、貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ唯一の定期航路として、農産物や石炭輸送の継続も迫られ、混乱状態に陥っていた[7][8][9]。このため関釜航路の景福丸(3,620.60総トン[10])、同航路の貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン[10])、稚泊航路の宗谷丸(3,593.16総トン[10])をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、これに対応し[6]、1947年(昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船昌慶丸(3,620.60総トン[10])を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多 - 釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船徳寿丸(3,619.66総トン[10])も青函航路へ助勤させていた[11]。
このような状況下、1946年(昭和21年)9月までに、当時就航中あるいは建造中であった車両渡船 第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸、石狩丸(初代)の船橋楼甲板に旅客用甲板室を造設して客載車両渡船(デッキハウス船)とし[12]、旅客輸送力増強を図ったが、いずれも「進駐軍専用船」に指定され、一般旅客の利用は禁止されてしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て戦時標準船で劣悪な船質のうえ、船腹不足のため十分な補修もされず酷使され続けたため、故障や事故が頻発し[13]、一向に貨車航送能力も回復しなかった。
このことが、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月、運輸省鉄道総局はGHQより、青函航路用として、車載客船4隻、車両渡船4隻の計8隻の建造許可を取り付けることに成功した。この車載客船4隻が洞爺丸型で、うち羊蹄丸(初代)を含む3隻が三菱重工神戸造船所で建造された。
第1船の洞爺丸は、建造許可を受けたわずか2ヵ月後の1946年(昭和21年)9月17日に三菱重工神戸造船所で起工され、その約2ヵ月後の11月7日には第2船 羊蹄丸(初代)が同造船所で起工された。翌1947年(昭和22年)3月26日の洞爺丸進水当日、第4船 大雪丸(初代)が同造船所で起工されたため、この日から、洞爺丸竣工の同年11月2日までは、同造船所では洞爺丸型が3隻、並行して建造されていた。1948年(昭和23年)4月9日、羊蹄丸は竣工した。
なお、終戦後、総トン数100トン以上の日本の全商船はGHQ管理下に置かれ、1945年(昭和20年)12月15日からは、その実施機関である日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)より付与された標識番号であるSCAJAPナンバーの船体への標示が義務付けられた[14]。羊蹄丸ではその標識番号Y062が竣工前より下部遊歩甲板側面中央部角窓上の白地に黒で標示され[15][16]、1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約発効[17]後抹消された[18]。