羽室嘉右衛門
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7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん[1] / かえもん[2]、1856年12月26日(安政3年11月29日[注釈 1])- 1924年(大正13年)8月25日[1][3])は、明治から大正期の地主・農業経営者・酒造家・実業家・政治家。京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人。衆議院議員、京都府何鹿郡中筋村長。幼名・逸郎[2]、松逸郎[2]。

郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長、明瞭銀行頭取。郡是製絲株式会社の第2代社長波多野鶴吉は次弟。比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道株式会社取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎は末弟。羽室亀太郎の妻ゆうは衆議院議員河原林義雄の妹。娘婿に郡是製絲株式会社第4代社長、参議院議員波多野林一。娘婿に衆議院議員岡田泰蔵。孫に京都学派西田幾多郎門下の哲学研究者、大阪大学名誉教授相原信作。玄孫に元京都府副知事、運輸・国土交通官僚の城福健陽。
羽室嘉右衛門家は、天田、何鹿、加佐三郡を通じて第1位の富豪であった。7代羽室嘉右衛門は『日本全国商工人名録』1898年( 明治31年)版によると、納税額490円878厘の京都府第11位の多額納税者であり、所有地価額は16814円で京都府第3位の大地主であった[4]。
網野菊の著作『烏頭』に昭和初期の羽室嘉右衛門家の屋敷について、「畑のかなたに一軒だけ、白壁の塀に囲まれた二階屋が、丁度小さな城のように見えた。塀も家の壁も白く美しかった。」と記述されている[5]。
経歴
丹波国何鹿郡延村[2][3](京都府[1]何鹿郡延村[6]、中筋村字延[3]を経て現・綾部市[2]延町)で、名字帯刀御免の綾部藩筆頭大庄屋、地主、札元、掛屋、酒造業、農業・6代羽室嘉右衛門、富美の長男として生まれる[2][3]。母の富美は何鹿郡上林馬場村の名門波多野本家より羽室嘉右衛門家に嫁ぐ。栗村の綾部藩郷学校・広畔堂に入り藩儒・沢井広重に師事し漢学を修めた[1][3][6]。1876年(明治9年)父の隠居により家督を相続し、7代嘉右衛門を襲名した[3]。農業、酒造業を営む[1]。妻は第百三十七銀行設立にも関わる兵庫県多紀郡篠山町二階町の篠山藩名字帯刀御免の巨商平野恒之進の次女松衛。
7代嘉右衛門の姉妹については、姉の梅(1852(嘉永5)年生)は兵庫県多紀郡篠山町の平野氏に、次妹の菊(1866(慶応2)年生)は与謝郡岩滝町大庄屋の糸井氏に、末妹の富恵(1868(明治2)年生)は加佐郡波美村の新井氏に嫁ぎ、富恵の娘の新井政恵は、男爵常盤井家の真宗高田派専修寺第23世に嫁ぐ[7]。
1884年(明治17年)7月、大島村外四カ村戸長に就任し、その後、所得税調査委員を務めた[3]。1889年(明治22年)5月、町村制施行による中筋村の成立に伴い初代村長に就任し[1][2][3]、1894年(明治27年)5月まで在任[3]。1890年(明治23年)10月、補欠選挙で京都府会議員に選出され3期在任し、1898年(明治31年)5月に退任した[1][2][3][6]。この間、郡部会副議長を務めた[3]。政党は自由党に所属し、その後立憲政友会に転じた[3]。1899年(明治32年)9月、何鹿郡会議員に当選し1901年(明治34年)7月まで在任し、この間、同議長も務めた[3]。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(京都府郡部、立憲政友会)で当選し[2][3][8]、衆議院議員に1期在任した[1][6]。その他、京都府教育会何鹿郡部会初代会長、何鹿郡農会長などにも在任した[1][2][3][6]。
実業界では、1883年(明治16年)11月、何鹿郡本宮町(現・綾部市)に明瞭銀行を設立して頭取となり、1901年(明治34年)の同行解散まで在任[2][3]。1887年(明治20年)弟波多野鶴吉とともに、羽室嘉右衛門邸の一角に製糸場「羽室組」を創業した際には資金提供とともに、養蚕に適する桑木育成のため良田を畑地転換し提供するなど「羽室組」操業を全面的に援助した。「羽室組」を母体として、1896年(明治29年)5月、羽室嘉右衛門家の信用と経済を背景とし、1株株主、2株株主の小株主が約6割という地域による出資を実現し、羽室嘉右衛門が頭取を務める明瞭銀行の金融を得て郡是製絲株式会社(現・グンゼ)が設立されると、推されて初代社長に就任し、1901年(明治34年)9月(同年6月に明瞭銀行解散)まで在任した[1][2][3]。その他、京都府農工銀行設立委員、同取締役、山陰倉庫株式会社社長、西陣製織監査役、綾部貯蓄銀行監査役なども務めた[3]。
国政選挙歴
- 第2回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1892年2月、自由党)落選[9]
- 第3回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1894年3月、無所属)落選[9]
- 第4回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1894年9月、自由党)落選[10]
- 第5回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1898年3月、自由党)落選[10]
- 第6回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1898年8月、憲政党)落選[10]
- 第7回衆議院議員総選挙(京都府郡部、1902年8月、立憲政友会)当選[8]