老乞大
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名称
構成
「老乞大」は、高麗人商人の大都への旅と.道中で合流する漢人商人との場面場面での対話で構成されている。
ストーリー
高麗商人(姓名は不明)が2人の従兄弟(金氏と李氏)および、近所の住人(姓は趙。だがこの人物は、途中で退出する)と共に、高麗特産の馬、高麗人参、カラムシの布、麻布を携え、高麗の王都(現在の開城市)を出立する。鴨緑江を越えて元の領土に入り、遼陽(現在の遼寧省遼陽市)を過ぎたあたりで、やはり馬を売りに大都へ向かう漢人商人・王客と知り合い、道中で宿屋や民家に泊まることを重ねつつ、1か月の旅程で大都へとたどり着く。高麗商人は大都在住の親戚を訪ねて商売の情報を得て、宿屋の主人の紹介で馬を売る。さらに南の涿州(現在の河北省涿州)まで足を延ばすという王客に同行して羊や反物、弓矢の仕入れに付き合い、中華料理を一緒に作るなどするが、王客は酒の飲みすぎで体を壊してしまう。王客が治療をしている間に高麗商人は高麗人参など高麗産の物品を売り、回復した王客と共に、高麗で売るための中国産の品物を仕入れる。最後に王客と別れ、高麗への帰途に着くところで物語は終わる[8]。
内容
本書は内容の大半が会話体で構成されている。以下は、高麗商人が酒屋で支払いをする場面である(日本語訳のみ記す)[9][注釈 1]。
| 高麗 | 酒屋、支払いだ。ほれ二両半の札[注釈 2]だ。五銭つりをくれ。 |
| 酒屋 | 旦那、いい札をくださいな。この札は字が消えている。どうやって使うんです? |
| 高麗 | この札のどこが気に入らないんだ?字も図柄もはっきりあるじゃないか。なんで使えないってんだい? |
| 酒屋 | お札の見分けがつかないようじゃ、人に見てもらっちゃどうですか? |
| 高麗 | お札の見分けがつかないってことがあるもんかい。なんだって人にみてもらわなけりゃならないんだい? |
| 酒屋 | お札を換えるだけで損するわけじゃなし、別の札に変えて一枚くれれば済むことでさぁ。言い合いをする必要もありますまい。 |
| 高麗 | この酒屋め、わるくごねるな、こんな札が使えないなんて。ほら、一両半札が一枚と五銭札が一枚だ。 |
| 酒屋 | この一両半札もぼやけてますぜ。 |
| 高麗 | でたらめを言うんじゃないぜ!今朝,飯を食ったところで、つりにもらった札だぞ。 |
| 酒屋 | ええい、いいや。まぁ置いていきなさい。使えなくっても仕方がない。 |
| 高麗 | そんな冗談を言ってどうする?使えないんなら欲しがるもんかい! |
旅行、宿泊、宴会、医療などの場面が会話体で生き生きと描かれ、さらに放蕩の末に落ちぶれる道楽息子の逸話などの教訓話などが挿入され、内容はさらに多彩なものとなっている。現代的に言うなれば、『北京旅行━商業・日常会話ガイドブック』とでも称するべきものである[11]。
北京での生活に関する独自の考察も含まれており、「胡同」(小路)という言語の所見も含まれる[2]。また主人公の高麗商人は大都での商売を終えて高麗に帰還するにあたり中国産の品物を仕入れているが、購入した書籍のひとつに『三国志平話』がある。『三国志演義』に先行する、「三国志」をモチーフとした小説である[12]。
後の版では、本文と同時に朝鮮語による諺解(オンヘ、解釈)も添えられている[13]。それぞれの漢字の下の左側には李氏朝鮮初期の学者・申叔舟が1455年に表した辞書に由来する民衆の読み方が、右側には当時の発音がハングルで記されている。それぞれの漢語の文章の後には、同様にハングルで口語的な朝鮮語訳が記されている[14][15]。
成立と時代背景
高麗王朝は後期よりモンゴル帝国の侵略を受け、28年の抵抗の末に1259年、降伏する(モンゴルの高麗侵攻)。以降、代々の高麗王は王妃としてモンゴル貴族の女性を娶るなど、モンゴルと高麗は政治的、文化的に極めて緊密な関係を営むことになる。中国北方と朝鮮半島の交流が深まる中、モンゴル語、漢語、高麗語(中期朝鮮語)の意思疎通のため通訳の育成は早急の課題であった[16]。『高麗史』の記述によれば、高麗において「舌人」と呼ばれた通訳は民間から採用されていたが、彼らによる不正(おそらく私的な貿易)が重なったため忠烈王2年(1276年)に通文館が設けられ、宮中の学官のうち外廷の職務を兼ねた40歳未満の者に漢語を学習させ、後には司訳館を置いて訳語に関する業務を担当させたという[17]。
『老乞大』の主人公である高麗商人は一読したところ一介の民間人のように思える。だが彼は年に一度の割合で元と高麗を往復し、さらに元の都・大都に親戚一同が居住しており、鴨緑江を渡って元の領土に入る際に文引(身分証明書)を用いている。これら設定から、主人公は国家の庇護を受けた特権商人であることが伺える[18]。
また巧みな漢語を操る主人公は「なぜ『漢児言語』(中国語)が話せるのか」と漢人らに問われ、「両親の命で中国に留学し、高麗人と漢人が半々の学校で『漢児文書』(漢文)を学んだ」と答えている。後の『朝鮮王朝実録』には1421年(太宗12年)、臣下から「医師、楽人、訳官を明に派遣してはいかがか」と奏上された太宗が「今の帝(明の永楽帝)は猜疑心が強く、時代背景も異なる」との理由で却下した、とあるが、この記述から察すれば元王朝時代には、高麗の留学生が実際に元王朝で言語などを学んでいたことが伺える。つまり『老乞大』には、通訳官が商人を兼ねて貿易を行っていた歴史的状況が反映されている[19]。
漢児言語
初版本で主人公の高麗商人、並びに同行する漢人商人は、自身が用いる「中国語」を「漢児言語」と称している。「漢児」とは中国北方の騎馬民族が漢民族を指す言葉で、同義語の「漢人」より口語的なニュアンスがあり、すでに南北朝時代より使用されていた[20]。
10世紀以降、中国北方は契丹族の遼王朝、女真族の金と、数百年間にわたり北方騎馬民族に支配され、やがて現地在住の契丹族や女真族は徐々に漢化されていった。「漢児」は、漢民族に加えて漢化した北方騎馬民族を包括した名称であり、彼ら漢児が操る漢語の口語が「漢児言語」である[21]。元来の漢語に契丹語、女真語の影響が加わり、本来の漢語にはない、例えば句の末尾に「有」の文字を付けるなど新たな用法が生まれた[21]。彼らの言語は「本来の漢語」を操る中国南方からは奇異に受け止められ、南宋の哲学者・陸九淵(1139年-1193年)の著書に「でたらめ」の意として「胡言漢語」の表現が見られる。だが漢児言語は口語という特性上、文章化されにくいものだった[22]。
やがてモンゴル帝国が中国全土を統一するに至り、モンゴル人によって構成された朝廷で、モンゴル語でしたためられた法令は漢語に翻訳されて民間に公布されることになるが、モンゴル語を「正規の漢語」に訳すれば誤訳の可能性が生じかねない。そのため法令は漢児言語に翻訳され、ここに口語であった漢児言語は文章化されることになる。これが、「蒙文直訳体」と呼ばれる文体の起源である[23]。この蒙文直訳体はフビライ・ハンの治世以降は定型化が進み、中国語のみの知識では解読が困難となった。だが『老乞大』の文章は現代中国語のみの知識でも解読が可能であり、蒙文直訳体の成立過程を探る上でも貴重である[24]。
版

『老乞大』は、中国北方の口語、あるいは朝鮮語の時代に伴う変化、さらに両国の社会的状況の変遷を受けて何度も改訂された。現状、5版が存在している[2][25]。
初版本は、14世紀中ごろの成立とされる[2]。『老乞大』や、朝鮮人役人を対象とした中国語学習本 『朴通事』朴通事は、1426年の記録にも政府の通事に必須の書籍として記され[26]、『朝鮮王朝実録』の世宗5年(1423年)、および16年(1434年)の条には鋳字所から『老乞大』を刊行させたとの記述がある[27]。
1998年に大邱市で発見された『老乞大』の写本は、紙質などから朝鮮王朝2代目国王・太宗の治世(1401年~1418年)の刊行とされ、元王朝時代の中国北方の口語的な古官話である「漢児言語」の会話で構成されている[28]。物語の中では、元王朝時代の紙幣を使用する場面が会話体で詳細に表現されている。だが、ストーリー上において5名だった登場人物が途中で4名になること、商品として携えた馬の頭数に揺れがあること、主人公の旅程がまちまちであること、商人の物語でありながら「役人になるための処世術」が唐突に挿入されていることなどから、大邱市発見の古写本は『老乞大』初版本のオリジナルではなく、ある程度の改訂が加えられた末のものと考えられる。整合性の崩れは、その際に生じたものだろう[29]。この写本は、便宜上『旧本老乞大』と呼ばれている。
成宗11年(1480年)、中国明王朝の使者より『老乞大』について「使用されている語は元王朝のもので、当代の言葉とは合わない」と指摘されたことから一部を改訂したという。おそらくはこの時点で「大都」を「北京」に、紙幣を銀に改めたのであろう[30]。後の中宗の治世、学者の崔世珍は成宗時代の改訂版にハングルによる音注と朝鮮語訳をつけた[31]。1517年ころ発表されたこの版は現在、初版と区別するため『飜譯老乞大』と呼ばれる[32][31]。朝鮮語の対話は口語体で書かれており、後期に類する中期朝鮮語の独自の洞察が記されている[13]。
以下に、『老乞大』の冒頭の文章の、1998年に発見された、初版本に近い文体の写本(通称、『旧本老乞大』)と、1517年ころ成立の『翻譯老乞大』の文章の比較を提示する[33]。
『旧本老乞大』
| 伴當從那裏來? | 旅のお方、お前さんどこから来なすった? |
| 俺從高麗王京來 | 私は高麗の都から来ました[注釈 3] |
| 如今那裏去? | これからどこへ行きなさる? |
| 俺往大都去 | 私は大都へ行きます[注釈 4] |
『翻譯老乞大』
| 大哥你從那裏來 | 旅のお方、お前さんどこから来なすった? |
| 我從高麗王京來 | 高麗の都から来ました。 |
| 如今那裏去 | これからどこへ行きなさる? |
| 我往北京去 | 私は北京に行きます。 |
『翻譯老乞大』では、一人称の「俺」が「我」に、「大都」が「北京」に、「中統鈔」(紙幣)が「白銀」と、元代から明代の中国語に表記が改訂されている[34]。また「漢児言語」特有の用法である、句の末尾に付く「有」の字を削除するなど、全面的に改定がなされている[35]。
第三版、『老乞大諺解』は顕宗11年(1670年)に司訳院から刊行された[36][31]。内容の漢語表記は第二版の『翻譯老乞大』同様だが、朝鮮語表記は1670年代当時の朝鮮語に更新されている。[37][38]。
やがて中国本土では明王朝が滅亡し、女真族が興した清王朝によって統一された。言語も時代の変遷に伴い変化した。『翻譯老乞大』も漢語表記が再び改訂され『老乞大新釈』として英祖37年(1761年)に刊行された[2][31]。この改訂は、1760年に朝鮮燕行使に同行した辺憲なる人物によるものである。この改定で文中の「高麗」が「朝鮮」に、「漢児人」が「中国人」に、「漢児言語」が「官話」に改められている。[39][31]。対応する注釈書は『老乞大新釈諺解』が1763年に出版されているが、後に散逸した[37]。
正祖19年(1795年)刊行の『重刊老乞大』も、『老乞大新釈』の系統である。対応する注釈書『重刊老乞大諺解』が付記されている。漢語の文章は、初版よりも口語的ではない[2]。
翻訳
関連項目
- 捷解新語-17世紀に李氏朝鮮で編纂された日本語学習用テキスト