聖なるタラ
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| 英語: The Sacred Cod | |
下院議場に掲げられた『聖なるタラ』。 1895年、マサチューセッツ州議会は次のような賛辞を寄せた。「主題は慎ましく、意匠は素朴である。しかしてこの魚像は、金細工や大理石彫刻のような豪奢な作品よりも遥かに威厳を保ち、荘厳さを帯びている」[1] | |
| 製作年 | 1784年 |
|---|---|
| 種類 | 木彫り |
| 寸法 | 150 cm (59 in) |
| 重量 | 80 lb (36 kg)[2] |
| 所蔵 | マサチューセッツ州会議事堂、ボストン |
| 座標: 北緯42度21分29.4秒 西経71度3分49.3秒 / 北緯42.358167度 西経71.063694度 | |
『聖なるタラ』(せいなるタラ、英語: Sacred Cod)とは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのマサチューセッツ州会議事堂下院議場に掲げられている、全長およそ150cmのタイセイヨウダラを忠実に模した木彫り像である。マサチューセッツ州にとってタラは「現代に至るまでの歴史的な象徴」とされ、この木彫り像は、同州にとってタラ漁がいかに重要であったかを示している[3]。およそ3世紀にわたって掲示されている『聖なるタラ』は3代目とされている。1747年の火災で逸失したとされる初代のものは伝説的な個体とされ、実在したかどうかは明確になっていない。2代目の『聖なるタラ』はアメリカ独立戦争の最中に行方不明となり、1784年に3代目のタラが設置され、マサチューセッツ州会議事堂の下院議場に掲げられている。
『聖なるタラ』(英語: Sacred Cod)という名称は正式なものではなく、1895年からそのように通称され始めた。これは、当時の下院で立ち上げられたタラ紋章史委員会がこの木彫り像を「聖なる象徴」(英語: the sacred emblem)と称したことに由来している。タラ紋章史委員会は、「100年以上に渡っていかなる政権下においてもその位置を保ち、旧議会、新議会を見守ってきた象徴の意義を調査する」ことを目的として立ち上げられた委員会であった[4]。その後、マサチューセッツの繁栄と影響力を築く上でタラ漁が果たした功績を認める形で、実際のタラに対しても「聖なるタラ」という呼称が用いられるようになった。
『聖なるタラ』はいくつかの盗難事件が記録されている。1933年には『ハーバード・ランプーン』誌の編集者によって持ち去られ、警察がチャールズ川やニュージャージー州の飛行場などを大捜索する騒動となった。1968年にはマサチューセッツ大学ボストン校の学生によって持ち去られる騒動が起きている。
マサチューセッツ州会議事堂では上院議場にも中央シャンデリア上方に真鍮で鋳造された魚の像が掲示されており、『聖なるサバ』(英語: Holy Mackerel)と呼称される場合がある[5]。


議員たちが当該地域がタラから受けている恩義を公的に認め、その木製模型を議場に掲示するよりも前から、個人や企業といった民間レベルでは積極的にタラに敬意を示し、その顕彰を可能な限り顕著にしようと互いに競い合っていた。 — 『代議員会議場におけるタラの紋章の歴史』、タラ紋章史委員会編(1895)[6]
マサチューセッツの地域は丘陵性の瘦せた土地で石も多く、農作業に適さなかった[7]。この地に入植してきた欧州の人びとが最初に手掛けた産業はタラ漁であり、同地における最初の輸出品は船一隻分の魚であったと伝えられている[8]。タラは「クズ同然の魚」とみなされていたが、漁師たちはタラ、サバ、オヒョウなどを漁獲して干し魚に加工し販売することで、この地に経済的安定をもたらした[9]。以降、タラは数世紀に渡ってニューイングランドにおける重要な象徴となり、タラを模した図案は硬貨や切手、企業や政府の印章、『セーラム・ガゼッタ』紙の初期の紋章など、さまざまな徽章に採用された。1743年にセーラムの著名な実業家が邸宅を建てた際に、広間の階段の端々に彫刻され金箔を施されたタラが飾られていたという逸話が残されている[10]。また、19世紀にはニューイングランドの新興商人階級の人々を指した「タラ貴族」(英語: codfish aristocracy)という蔑称が広まった[11][12][7]。
1920年代末にはトーテムのようなレイアウトのタラの紋章が[13]、短期間ながらマサチューセッツ州の自動車ナンバープレートに採用され、小説家のハワード・フィリップス・ラヴクラフトが「愉快なもの」として言及している[14][15]。
英文学者の越智敏之は、自著『魚で始まる世界史』の中で、この地に大量のタラがいたからこそ新世界であるアメリカ大陸東北部は旧世界の経済的な枠組みに組み込まれたとし、『聖なるタラ』はこうした歴史のダイナミズムそのものを象徴していると評している[16]。
歴史


マサチューセッツ州下院議会旧議場の高所には、制定と廃止の満ち引きや、弁論の深淵を悩ませる気まぐれな嵐に小動もせず、静かに議論の「波」に乗っている、木で巧みに作られ、生き生きと彩色された一匹のタラが、太古の昔から掲げられてきた。
主題は慎ましく、意匠は素朴である。しかしてこの魚像は、金細工や大理石彫刻のような豪奢な作品よりも遥かに威厳を保ち、荘厳さを帯びている。その像が住む世界は、かつてその原型が大海原の無数の群れとともに泳ぎ回った世界よりもはるかに広大である。そこから学びうる教訓は、美しいものから得られるどんな教訓よりも崇高である。というのも、この静かで孤独な魚は、まるで神託のように記憶と予言を本能的に備えているのだ。この魚は「人間の思索」という、果てしない広大な海を象徴的に泳ぎ回っている。これはマサチューセッツ州の市民、そして世界の市民にとって、州の創設を象徴している。これは民主主義を記念するものであり、自由制度の台頭を祝福するものであり、進歩を強調するものであり、マサチューセッツ州そのものである。 — 『代議員会議場におけるタラの紋章の歴史』、タラ紋章史委員会編(1895)[17]
通称『聖なるタラ』と呼ばれる魚像は、一時的な中断はあったものの、少なくとも2代、そしておそらく3代にわたって、マサチューセッツ州下院議場、あるいはその前身であるマサチューセッツ湾州議会に、3世紀の間掲げられてきた。本項ではそれぞれの『聖なるタラ』の歴史について詳述する。
初代
議場に掲げられた最初のタラについて、タラ紋章史委員会は次のように記した。
マサチューセッツ湾直轄植民地の初期の代議院には、サミュエル・セウォール判事から寄贈されたタラが掛けられていたという伝承がある。しかし、セウォールの遺稿にはこの伝承上のタラに関する言及は一切なく、彼のような饒舌で多弁だった人物が、自らの贈答物について記録し忘れるということは考えにくい。 — 『代議員会議場におけるタラの紋章の歴史』、タラ紋章史委員会編(1895)[18]
この件についてこれ以上の記録は確認されておらず、タラ紋章史委員会は「仮にその『聖なるタラ』が存在し、またその起源がなんであれ、1747年に発生したボストンの旧州会議事堂の火事とともに、この伝説の太古の生き物は、炎と煙の中に消え去り、その歴史はいまなお古物研究者の目に霞をかけているのである。」と締めくくっている[18]。
2代目
2代目となる『聖なるタラ』は、州会議事堂が再建された1748年から、1773年までの期間に掲げられたと見られている。1773年にトーマス・クラフツ・ジュニアというデザイナーがマサチューセッツ湾直轄植民地に対して「タラの絵付け代、15シリング」という請求を行ったという記録が残されていることがその根拠となっている。しかしながら、タラ紋章史委員会は、その後数年のうちにこの木像は姿を消し、おそらく破壊されただろうと推察している。
(2代目の『聖なるタラ』は)州会議事堂から消え、おそらく破壊されたに違いない。というのも、その後の子細な歴史調査でも消失の時期、方法、原因について明確にすることができず、そのことに関するいかなる言及も発見できていないからである。もしかしたらボストン包囲戦にて旧州会議事堂を即席兵舎として活用し宿営していた英国兵の誰かが、新たに彩色された小綺麗なマサチューセッツ州の象徴に腹を立てたのかもしれない。狼藉者は胎動期にあったマサチューセッツ州が手にし得る物質的豊かさを保証し、反乱側愛国者たちに助力と慰めを与えて愛されてきた大切な象徴を壁から引き剝がし、その時代に似付かわしい破壊行為の精神で、昨夜の焚き火の燃料にしたのだろう。 — 『代議員会議場におけるタラの紋章の歴史』、タラ紋章史委員会編(1895)[19]
『代議員会議場におけるタラの紋章の歴史』では、マサチューセッツ名誉砲兵隊に所属していたジョン・ウェルチという人物がこの2代目の『聖なるタラ』を彫ったと結論付けている[20]。ウェルチの親族たちは常々州議事堂のタラはウェルチが彫ったと公言しており、それが2代目の『聖なるタラ』を指しているのか、3代目の『聖なるタラ』を指しているのかについては長らく議論されてきたが、タラ紋章史委員会は、ウェルチの生没年や他の記録との照合から、2代目の『聖なるタラ』の制作者と位置付けた[20]。
3代目
3代目となる『聖なるタラ』は、1784年に州会議事堂に備え付けられた。これは、ロウズ埠頭の由来であり、アメリカ独立戦争の契機ともされるボストン茶会事件の中心人物の一人であったジョン・ロウ下院議員によって、『聖なるタラ』の議会掲示の許可を求める記録が残されていることから明らかとなっている[23]。費用についてはロウが個人的に負担した可能性も指摘されているが、こうして、マサチューセッツの象徴である『聖なるタラ』は、議会に掲げられ続けることとなった[24]。
1798年には新しい議事堂の下院議場へと移された[25]。当初は議長席の上に掲げられていたが、1850年代には議場の後方へと移された[24]。1867年、1874年には再塗装と修復のために取り外された期間があり、その際に長さが4フィート11インチ(約150cm)であると計測がなされた[24]。1879年には後に州知事となるクリストファー・ゴアの実兄であるサミュエル・ゴアによって再塗装された[26][27]。
1895年1月2日、下院がこれまでの議場から新しい議場へ移ることとなった最後の日、100年以上にわたって同じ議場で過ごした『聖なるタラ』を一緒に移設すべきかどうかという議題が取り上げられた。しかしその結論を出す前に、この木像の歴史的経緯とその意義を調査するべきであるという意見が挙がり、3人の議員からなるタラ紋章史委員会が組織され、およそ2か月に及ぶ研究と調査が行われた。委員会が提出した報告書をもとに討議した結果、下院は『聖なるタラ』を新しい議場へ移すことを決定した[28]。15名の下院議員団が警務官に案内されて旧議場へ向かい、『聖なるタラ』が副門衛によって降ろされ、星条旗に包まれたうえで棺台に乗せられ、新しい議場へと運ばれた。新しい議場では議員たちが満場総立ちの拍手でもって『聖なるタラ』を出迎えた[29]。その後、画家のウォルター・M・ブラケットによる再塗装を経て、議場中央の二列の柱の間(ジョン・ロスロップ・モトリーとフランシス・パークマンのネームプレートの下[24])の、時計の上に掲げられた[30]。

『聖なるタラ』は1965年にも塗り直しが行われている[32]。1895年以降、基本的に北向き(議長席から見て左向き)に掲示されていたが、この塗装時に一時的に反対向きに掛けられていた期間がある[32]。
愛称の由来と定着
タラ紋章史委員会の報告書の中に「聖なる紋章」(英語: the sacred emblem)についての言及があり[24]、委員会が調査を進める最中で『ボストン・グローブ』紙に、その木像を『聖なるタラ』(英語: Sacred Cod)と呼称する詩が掲載された[33][注釈 1]。この呼称は数年のうちにニューイングランド外にまで広まり、作家、ジャーナリスト、広告業者らが日常的に用いるようになった[34]。間を置かずに「聖なるタラ」という語は州議事堂の木製のタラに限らず、実際の海のタラに対しても用いられるようになり、とりわけ商品名としての定着を見せた。例えば、1908年にボストンで開催された全米食料小売組合の大会において、ある代表者は次のように回想している。
食品業界の状況改善を図った最初の組織的な取り組みはボストン茶会事件だったのだ。ボストン・ベイクド・ビーンズや神聖視されているタラがなければ、我々はどうやって暮らしていけるというのだ。 — 『アメリカン・フード・ジャーナル』1908年5月15日[35]
その2年後には、ニューハンプシャー州農業委員会が特有の性質や優れた品質で有名な食品の偽装を嘆くという文脈において「ハドック、ヘイク、ポラック、カスクといった魚種が「聖なるタラ」に代わって無差別に代用されている」と記しており、「聖なるタラ」を実際の海のタラに対して使用する用例が見られる[36]。また、1912年にはアメリカ合衆国第27代大統領のウィリアム・タフトが、ボストン滞在中にニューヨークで開かれた晩餐会において、「聖なるタラの本拠地から長距離電話をかけている」と演説した[31]。その他、1922年には歴史家のサミュエル・モリソンが植民地経済における漁業の重要な役割を強調し、「ピューリタンのマサチューセッツは、その理念を聖なる書物から得たが、富と権力は聖なるタラから得た」と記した[37]。
