聚珍社
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聚珍社(しゅうちんしゃ)は日本の印刷関係の会社。聚珍は「珍しいものを拾い集める」を意味し[1]、中国の清朝・乾隆帝が四庫全書のうちの重要なものを木活字で印刷し、それを「聚珍版」と呼んだことから[2]、のちに活字印刷をあらわす言葉となった[3]。
- 印刷所開設と新聞発行を決めた秋田県庁の依頼で、吉岡や柴村、のちに宇田川文海として知られる鳥山捨三らが東京から秋田入りし、秋田魁新報の前身である「遐邇新聞」を明治7年に創刊・印刷した[6]。社名と新聞名は狩野良知が名付けた[1]。吉岡は番組宿屋主人から維新後書店(製本所)経営に転じた商人[7][8]、柴村は日本橋の元鼈甲屋で[5]、二人は同じく明治7年に連名で秋田初の上下水道計画を申請するなどもしている[9]。その後社内人員変動し、明治11年に新聞は『秋田遐邇新聞』と改題して秋田の民権運動に影響を与えたほか[6]、同年、文芸誌「羽陰小誌」を発行、翌12年には滑稽文芸誌「ころころ雑誌」、児童文芸誌「二葉新誌」を創刊し、とくに羽陰小誌は大沼枕山、小野湖山、大鳥圭介、陸奥宗光、長岡護美、白根専一、千家尊福、岡千仭、高崎正風、税所敦子、中島歌子、佐々木弘綱らも寄稿する秋田を代表する大雑誌となった[5]。その後聚珍社は秋田活版所に改称して人員は四散、秋田改進党事務所へ移り政党新聞発行に姿を変えた[5]。