胡装
五代十国時代の官僚
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経歴
唐の礼部郎中の胡曾の孫にあたる。後梁の楊師厚が魏博節度使となると、胡装は魏博節度副使の李嗣業と旧交があったことから、魏州に赴いて頼り、推薦を受けて貴郷県令に任じられた。乾化5年(915年)、張彦が反乱を起こし、李嗣業が殺害されると、胡装は官を辞め、魏州の客となった。晋王李存勗が魏州を占領すると、胡装は李存勗に会って任官を求めたが、司空頲にその貪欲ぶりを指弾されたことから、長らく任官されなかった[1]。
天祐13年(916年)、李存勗が太原府に帰ると、胡装は離亭で伺候した。奏者番が案内しようしなかったため、胡装は門扉を押し開いて入り、死を覚悟で李存勗のために働きたいと申し出た。李存勗に酒食を与えられてもてなされ、この年のうちに館駅巡官に任じられた。ほどなく監察御史裏行に任じられ、節度巡官に転じ、緋魚袋を賜った。推官・検校礼部員外郎を歴任した。胡装は独学で書を学び、いたるところの宮亭寺観に詩を書きつけたので、当時の人に非難されたが、恥じ入ることもなかった。天祐17年(920年)、李存勗が魏州から徳勝口に赴くにあたって、城楼で餞別の宴を開き、官僚たちが離席した後、胡装はひとり留まって、詩3篇を献上した[1]。
同光元年(923年)、胡装は給事中となり、荘宗(李存勗)に従って洛陽に赴いた。ときに連年洪水が起こっており、百官の多くが対処に苦しんでいたことから、胡装は自ら求めて山南東道節度副使となった。同光4年(926年)、洛陽で興教門の変が起こると、胡装は私怨により山南東道節度使の劉訓に一族皆殺しにされた。劉訓は胡装が反乱を計画していたと誣告したが、当時の人々はこれを冤罪とみなした[2]。