劉訓

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劉 訓(りゅう くん、生年不詳 - 932年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は遵範。本貫隰州永和県[1]

軍隊の中で身を立て、はじめ李克用に仕えて馬軍隊長となり、散将に昇った。乾寧2年(895年)、河中節度使の王重盈の死後、王珙王珂が争うと、劉訓は史儼に従って陝州を攻撃した。李克用が王行瑜を討つと、劉訓は先鋒をつとめた。河中府が李克用に服属すると、劉訓は隰州防禦都将となった。ほどなく陝州刺史を殺し、陝州が晋王李存勗に帰順すると、劉訓は瀛州刺史に転じた。後唐同光元年(923年)、左監衛大将軍に任じられた。同光3年(925年)、山南東道節度使として出向した。同光4年(926年)4月、洛陽興教門の変が起こると、劉訓は山南東道節度副使の胡装を私怨のために殺害した[2]天成元年(同年)8月、検校太傅を加えられた[3]。天成2年(927年)、荊南高季興が叛くと、劉訓は南面行営招討使となり、知荊南節度事をつとめた。このとき、馬殷が水軍で合流したいと申し出てきた。唐軍が荊州にいたり、楚の許徳勲らの軍が岳州に到着して、劉訓に意を伝えると、劉訓は軍糧や武装を援助することを許可した。荊州の地は湿気が多く、長雨が続き、兵糧の輸送が続かず、劉訓の兵の多くは疫病にかかった。劉訓は江陵の攻略に苦戦した。孔循が来援して、襄州の小校の献じた竹龍の術で竹龍2道を造り、ようやく江陵城下まで達したが、攻め落とせなかった。劉訓は撤兵し、洛陽に召還されると、敗戦の責を問われて檀州刺史に左遷された。さらに勅命により濮州に追放された[4]。天成3年(928年)、右龍武軍大将軍として起用された[5]。ほどなく建雄軍節度使に任じられ、彰武軍節度使に転じた[4]長興2年12月4日(932年1月14日)、死去した[6]太尉の位を追贈された[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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