胡証

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胡 証(こ しょう、758年 - 828年)は、唐代官僚は啓中[1][2]本貫蒲州河東県[2]

胡瑱の子として生まれた。貞元5年(789年)、進士に及第し、河中節度使の渾瑊に召し出されて従事となった。殿中侍御史から韶州刺史に任じられたが、老齢の母のために遠地への赴任を辞退して、太子舎人に転じた。山南東道節度使の于頔に招請されて掌書記をつとめ、検校祠部員外郎となった[1][2]

元和4年(809年)、胡証は侍御史から左司員外郎・長安県令戸部郎中を歴任した。元和7年(812年)、魏博節度使の田弘正が朝廷に帰順し、副使を求めると、胡証は御史中丞を兼ね、魏博節度副使をつとめた。そのまま太子左庶子を兼ねた。入朝して左諫議大夫に転じた[1][2]

元和9年(814年)、党項羌が西北辺境を侵犯すると、胡証は単于大都護・兼御史大夫・振武軍節度使に任じられた。元和13年(818年)、長安に召還されて、左金吾衛大将軍・兼御史大夫となった。元和14年(819年)、京西京北巡辺使をつとめ、関中西北の地方を訪れて、その官民の利害を奏聞した[1][2]

長慶元年(821年)、太和公主が回紇に降嫁するにあたって、胡証は本官のまま、検校工部尚書となり、和親使をつとめた。漠南に到着すると、回紇は華服を戎服に改めるよう求めたが、胡証は漢の儀礼を守って、君命を辱めなかった。帰国すると、工部侍郎に任じられた[1][2]

長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、胡証は検校戸部尚書となり、京兆尹を代行した。数カ月後、左散騎常侍に転じた。宝暦元年(825年)、戸部尚書・判度支に任じられたが固辞し、節度使の任官を求めた。宝暦2年(826年)、検校兵部尚書広州刺史となり、嶺南節度使をつとめた。大和2年(828年)、病のため長安に帰りたいと上表した。この年の10月、嶺南で死去した。享年は71。尚書左僕射の位を追贈された[1][2]

子女

脚注

伝記資料

参考文献

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