斉は紀元前9世紀中頃に薄姑から臨淄に遷都した。紀元前8世紀中頃の春秋時代初期には臨淄故城が存在していたとみられる。臨淄故城の東は淄河に臨み、西は泥河と呼ばれる水系に臨んでいる。
臨淄故城は大城とその西南に接する小城からなる複郭構造である。大城は東壁が5209m、南壁が2821m、西壁が2812m、北壁が3316m、西壁基厚が32m - 43m、周14.16kmである。小城は東壁が2195m、南壁が1402m、西壁が2274m、北壁が1404m、周7.28kmである。
小城内の桓公台周囲には版築の土面が確認され、付近一帯に大型建築が存在していたと推定される。
城内では製鉄遺構・鋳銅遺構・鋳銭遺構・骨器製作工房などの手工業遺跡が発見されている。大城東北部の鋳銅遺構の第2・第3層中では、銅渣・炉壁・焼土などが発見され、第3層は春秋時代前期に属している。大城西北部の城壁を横切る戦国時代の石組み排水溝も発見されている。また多数の土器・青銅器・半瓦当・塼・陶文・封泥などが発見されている。
戦国後期の臨淄の城内人口は7万戸。1戸5口とすれば35万人となる。
臨淄故城の南東には、田斉の王陵と称される四王冢などの巨大な墳丘墓がある。また臨淄故城の内外で春秋戦国時代の斉の墓が調査され、墳丘の存在も確認されている。