與那原大剛
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経歴
プロ入り前
小学3年生で野球を始め、6年生の時には県大会ベスト8進出、学童軟式野球全国大会優勝を果たす[1]。桑江中学校では日隈ジュリアスと同級生だった[2]。
高校進学を控え複数の高校から勧誘を受けたものの、小学校時からバッテリーを組んでいたチームメイトと同じ高校に入ることを希望し、沖縄県立普天間高等学校に進学した[1]。高校では3年夏の全国高等学校野球選手権大会で県予選ベスト8に進出したのが最高成績で、甲子園出場は果たせなかったものの、身長190cm、体重89kgの体格と、最高球速148km/hの速球で注目され、県予選ではプロ11球団のスカウトが視察に訪れていた[1][3]。
2015年10月22日に行われたドラフト会議において読売ジャイアンツから3位指名され、11月9日に契約金5000万円、年俸600万円(推定)で仮契約を交わした[4]。背番号は46に決まった[4]。
巨人時代
2017年9月、三軍戦での登板時に右肘に痛みを覚え、病院で「右肘内惻側副靱帯の損傷」と診断され、保存療法での治療を選択[5]。オフに背番号が91に変更されることが発表された[6]。
2018年に入っても右肘の状態が良くならず春季キャンプ前にはPRP療法を選択し完治を目指すも、6月にトミー・ジョン手術を受けた[5]。10月2日、自由契約を通知された[7]。11月19日、育成選手として再契約した[8]。背番号は023[9]。
2019年は8月6日に行われたファーム紅白戦で1年11か月ぶりに実戦復帰し、その試合で自己最速の150km/hを計測した[10]。
2020年は6月に右肘の肉離れで戦線離脱。イースタン・リーグでも登板機会なしに終わった[11]。オフに背番号が046に変更されることが発表された[12]
2021年はイースタン・リーグ9試合に登板し、2勝3敗、防御率7.65という成績だった[13]。
2022年は7月28日時点でイースタン・リーグ15試合の登板で防御率2.08と好成績だったが、同日に支配下選手70人の登録枠が埋まってしまい、この年も支配下登録復帰はならなかった[14]。
引退後
2022年10月28日に戦力外通告を受け[15]、11月20日に引退を決断した[16]。その後、ジャイアンツアカデミーのコーチに就任することが発表された[17]。