舒元輿
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学問を始めると、才知に優れ、理解が早かった。鄂州に滞在すると、鄂岳観察使の郗士美にその優秀さを称賛された。元和8年(813年)、進士に及第し、山南西道節度掌書記を初任とした。鄠県県尉に任じられ、有能で知られた。大和元年(827年)、入朝して監察御史となり、侍御史に転じた。九宮壇の祭祀を見直すよう上奏して、文宗に聞き入れられた。ほどなく刑部員外郎となった[2][1]。
大和5年(831年)8月、元輿は著作郎に任じられ、分司東都をつとめた。ときに李訓が母の喪に服すために洛陽におり、元輿と馬が合って互いに親しくつきあった。李訓が文宗の寵遇を受けると、元輿も尚書郎として召還された。大和9年(835年)、右司郎中・知御史台雑事となった。7月、知御史中丞事をつとめた。9月、正式に御史中丞に任じられ、刑部侍郎を兼ねた。この月、本官のまま同中書門下平章事となり、李訓とともに宰相となった。李訓とともに宦官誅殺を計画した。11月21日(12月14日)、李訓が甘露の変を起こして失敗すると、元輿は服を変えて単騎で安化門から出て逃走した。追っ手に捕らえられて、左神策軍に送られた[3][4]。11月24日(12月17日)、元輿は一族とともに処刑された[5][6]。
家族
- 父:舒恒(武昌軍将校)
- 弟:舒元褒(司封員外郎)
- 弟:舒元肱(字は良哉)
- 弟:舒元迥(字は子穎、山南西道従事)[7]