航空情報隊
From Wikipedia, the free encyclopedia
沿革
1934年ごろからソ連軍は極東地区の警備を強化し、関東軍を圧倒しつつあった。満州に展開する各航空部隊には有事の際に制空権を先制確保するべく情報収集が求められたが、自前での収集能力は皆無であり、関東軍の特務機関に依存していた。しかし、すでにソ連領内への諜報活動が困難となっていたことから、関東軍に新設された参謀部第二課別班は通信の傍受、刊行物の収集、そして国境からの監視による向地視察から動向の解析を試みた。中でも、向地視察は大きな効果があった[2]。
1935年、陸軍は伊藤周次郎少将(航空本部技術部長)を長とする航空視察団をドイツ、英国、フランス、ポーランドに、1936年には菅原道大大佐を長とする航空視察団をドイツに派遣した。視察団からの報告をもとに1937年成立した「長期航空軍備計画」(一号軍備計画)の中に、ソ連国境にて防空監視を行う「飛行情報隊」の編成が盛り込まれた。同計画では、飛行情報隊は隷下に5個飛行情報班を有し、1班を各5個の防空監視哨に配置させることにより、125キロ~250キロの監視網が形成可能とされた[3][4][5]。
1938年、飛行情報隊は航空情報隊として正式発足し、5月17日、第2飛行集団隷下として第1・第2航空情報隊が延吉にて、第15・16航空情報隊が中支・北支にてそれぞれ成立した[3]。大陸・南方にて成立したこれらの多くは、合併・拡張を繰り返し終戦までにその大半が航空情報連隊へと昇格している。
一方、内地では1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部と都道府県がそれぞれ管轄する防空監視隊が成立。12月8日、全国各地に設けられた防空監視哨に服務する第21~各防空監視隊と、軍司令部で報告を担う第21~防空通信隊が成立。また、従来の目視に加え電波警戒機(レーダー)を運用するため、航空情報連隊の内地転用を打診。静岡県磐田に教育を行う第1航空情報連隊が成立し、超短波警戒機甲を運用する特殊監視隊が新設された。超短波警戒機乙もおおむね生産が本格化した1943年(昭和18年)5月~6月、これらの部隊を合併して東部・中部・西部・朝鮮・台湾・北方軍防空情報隊が成立した[注釈 1]。この際、管轄を航空高級司令部とするか各軍司令部とするかで議論があったが、防空作戦室をはじめ軍司令部に整備された機能をそのまま活用できる後者が妥当と判断され[3]、第10飛行師団隷下となった東部軍航空情報隊以外は軍司令部の隷下に留まった。
内地ではほかにも、1942年(昭和17年)8月4日に第17・第18・19飛行団司令部情報隊が編成され東部軍・中部軍・西部軍の麾下にて警戒隊に随伴し高度・彼我識別判定を行ったが、防空情報隊との任務の重複や目視に依存していたことから、八幡空襲後の1944年6月26日、吸収合併され東部・中部・西部軍航空情報隊へと改称した[8][9]。
1945年4月上旬、南方軍および第5方面軍・第10方面軍を除く大陸と内地の各軍管区航空情報隊は航空総軍隷下に転じ、第31~36航空情報隊が成立した[10]。
勤務内容と女子通信手
編成は以下の通り[11]。
- 本部:部隊長(少佐、連隊は中佐、内地では大佐)以下70名
ほかに当初、敵機無線を傍受して地上方向探知機による方位測定を実施し友軍機に通報する航測中隊が大陸での編成のみ存在していたが、1941年7月以降航測隊として順次分離独立していった[14]。また、43年の警戒機の普及後、監視隊は警戒隊へと次第に置き換わり、東部軍では移行をおおむね進めていたが、朝鮮軍では依然として監視隊8個中隊が展開していた。
一部人員は連絡業務のため飛行師団や高射師団に出向した。また戦地で一部は「特情勤務」も行っていた[15]。
通信隊などの本部人員は、各軍管区司令部に隣接する半地下構造の強固なコンクリート外壁の「防空作戦室」で勤務した。監視哨や警戒隊、また民間監視哨や海軍鎮守府[8]からの敵機情報が有線・無線で入ると、作戦室中心部吹き抜けの壁と床に設置された情報盤に位置情報を表示し、飛行師団・高射砲集団(のち高射師団)に共有する流れであった。
1942年12月より、上記の情報盤への入力や各部隊への交換連絡を担当する軍属として「女子通信手」[注釈 2]を導入。4個小隊(2、300名)規模で1班計30名からなり、2班~4班が6時間ごとの2~3交代制で勤務した。応募要件は高等女学校卒業程度(専科在学中ケースもあり)、厳格な身元調査、学科、体格、面接試験を経て、採用者は3か月の訓練ののち上等兵以上相当の待遇が得られた。月給は60円~120円[注釈 3]と将校に匹敵する破格の処遇であった。北海道の第20航空情報隊では公募は行わず、高等女学校卒業生からの選抜者を半強制的に動員し、また中国軍管区防空作戦室では勤労動員の現役高等女学生を勤務させた。司令部の高級幹部の子女もいたという[注釈 4]。寮があったほか、自宅からの出勤も可能であったが、制服を知らない近隣住民からスパイと間違われ警察に拘束されたこともあった[21]。また、東京大空襲では出勤中に犠牲となった者もいた。
女子通信手らは法的上の問題からあくまで軍属との位置づけであったが、銃の取り扱いがないことを除いては軍人勅諭や戦陣訓の暗記、不寝番など兵士に準じる訓練教育がなされ[22]、ビンタを張られることもあった[23]。佐々木陽子による聞き取りでは、自身を女性軍人であるとの自負を持っていた元女子通信手もいた[24]。女学校にも広まった軍事教練や勤労動員によってジェンダー越境が進んだことにより、本人たちや家族は軍務につくことを肯定的なものとしてとらえており[25]、聞き取り対象者のほとんどが勤務を充実したものだったと回答した[26]。一方、中部軍航空情報隊では軍隊生活の中で人間性が失われていくことにおそれを感じ、結婚を口実に退職した者もいた[27]。軍・師団司令部での電話交換手も含め、2500名程度が勤務していたというが、資料が少なく実態はいまだ不明点が多い。
編成
- 航空総軍隷下
- 第2航空軍隷下
- 第3航空情報連隊(鞍山、第3航空情報隊)
- 第11航空情報連隊(満州、13年編成の第1・第2航空情報隊が合併)
- 第17航空情報隊(19年3月第17飛行団司令部情報隊より改名→6月東部軍航空情報隊に吸収合併[9]→20年チチハルにて再編)
- 第5航空軍隷下
- 第5航空情報連隊(漢口→広東)
- 第6航空情報連隊(18年12月に第15航空情報隊より拡充、広東→南京)
- 第1総軍麾下
- 第2総軍麾下
- 関東軍麾下
- 第17方面軍 - 第37航空情報隊(帥7440、京城、元・朝鮮軍航空情報隊)
- 通信隊×1個中隊(うち女子通信手4個小隊、計250名)[30]
- 放送隊×1
- 警戒隊×8(編成完結未達)
- 監視隊×8
- 第17方面軍 - 第37航空情報隊(帥7440、京城、元・朝鮮軍航空情報隊)
- 第2航空教育団 - 第1航空情報連隊(羽8363/中部129、磐田)
- 南方軍隷下
- 第3航空軍
- 第2航空情報連隊(仏印)
- 第14航空情報連隊(スマトラ)
- その他(非航空総軍隷下)
- 第5方面軍 - 第20航空情報隊(月寒送信所)
- 第32軍航空情報隊(沖縄、20年2月に独立第1・第2警戒隊より編成)