私は貝になりたい
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| サンヨーテレビ劇場 私は貝になりたい | |
|---|---|
| ジャンル | テレビドラマ |
| 原作 | 加藤哲太郎(題名・遺書) |
| 脚本 | 橋本忍(物語・構成) |
| 演出 | 岡本愛彦 |
| 出演者 |
フランキー堺 桜むつ子 佐分利信 南原伸二 河野秋武 |
| オープニング |
作曲:土橋啓二 演奏:東京テレビ・オーケストラ |
| 製作 | |
| 制作 | ラジオ東京テレビ |
| 放送 | |
| 音声形式 | モノラル放送 |
| 放送国・地域 | |
| 放送期間 | 1958年10月31日 |
| 放送時間 | 22:00 - 23:40 |
| 放送枠 | サンヨーテレビ劇場 |
| 放送分 | 100分 |
| 回数 | 1 |
特記事項: 全編モノクロ作品 VTR・生放送を併用 第13回芸術祭文部大臣賞受賞 | |
『私は貝になりたい』(わたしはかいになりたい)は、ラジオ東京テレビ(KRT→TBS)の「サンヨーテレビ劇場」で1958年10月31日22:00 - 23:40に放送された日本のテレビドラマ。元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記「狂える戦犯死刑囚」の遺書部分をもとに創作された橋本忍脚本によるフィクションで、第二次世界大戦中に上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後B級戦犯として逮捕され処刑されるまでを描く。岡本愛彦演出、フランキー堺主演。第13回文部省芸術祭芸術祭賞[注 1](放送部門)受賞作[注 2]。
あらすじ
第二次世界大戦中の1944年。高知県幡多郡清水在住の清水豊松(しみず とよまつ)は、気の弱い平凡な理髪師。理髪店を営んでいたが、戦争の激化によって赤紙が届き、応召することになる。
内地の某部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたB-29の搭乗員が裏山に降下し、「搭乗員を確保、適当(2008年の映画版では「適切」)な処分をせよ」という命令が豊松の中隊に下る。山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見し、隊長は搭乗員を銃剣で刺殺するよう豊松に命令するが、気の小さい彼には殺すことができず、実際には負傷させただけに終わる。
終戦後、豊松は除隊して帰郷し、理髪店で再び腕を振るっていた。しかしある日、特殊警察が豊松をBC級戦犯として、捕虜殺害容疑で逮捕する。裁判で彼の主張は認められず、死刑を宣告された豊松は、処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。こんな酷い目に遭わされるのなら牛や馬の方が良い。いや、牛や馬になってもきっとまた人間に酷い目に遭わされる。いっそのこと深い深い海の底の貝に…。そうだ、貝が良い。どうしても生まれ変わらなければいけないのなら、深い海の底で戦争も兵隊も無い、家族を心配することもない、私は貝になりたい」と遺書を残すのだった。
登場人物
- 清水豊松:フランキー堺
- 清水房江:桜むつ子
- 清水健一:平山清
- 敏子(房江の妹):高田敏江
- 三宅:坂本武
- 竹内:増田順二
- 根本:十朱久雄
- 酒井正吉:垂水悟郎
- 松田老人:有馬是馬
- 客:里木三郎
- 中学生:伊藤正次、伊藤克
- 刑事:梶哲也、永島明
- 近所の人:峰夕美子、安井奈菜、大木弦介
- 参謀:大森義夫
- 司令部担当将校:原保美
- 尾上少佐:恩田清二郎
- 足立少尉:浅野進治郎
- 木村軍曹:清村耕次
- 立石上等兵(下士官):小松方正
- 滝田二等兵:熊倉一雄
- 大西三郎(同房の死刑囚):内藤武敏
- 西沢卓次(戦犯被告):佐野浅夫
- 小宮(教誨師):河野秋武
- 日系人通訳:田中明夫
- 戦犯:織本順吉、幸田宗丸、神本貞也
- アナウンサー:鶴田全夫
- 判事:ハワード・ラーセン、トマス・マクベイ、ジェームス・ウォーレス、ウォーレン・ミッチェル、ディブ・ヒックラー
- 拘置所長:ドナルド・ウォーレン
- 通訳:N・クラーク
- 検事:ブライアン・ムーア、ハロルド・モス
- MP・警備兵:ジェリー・イトウ、ジョーン・オガート、B・N・リード、ジョージ・ラウリア、ジョーン・キャスグローブ 他
- 三期会、七曜会、生活劇場、土曜会、新演、8プロ、人生派、青俳、バンビ、子鹿 他
- 弁護人:ジョージ・ファーネス[注 4](特別出演)
- 日高大尉:南原伸二(特別出演)
- 矢野中将(中部軍司令官):佐分利信(特別出演)
スタッフ
放送
このドラマは、豊松が逮捕される場面までの前半約30分強がVTR(10月26日深夜に収録)、裁判から最後までの後半が生放送で放送された[1][2]。当時はVTRのコピー編集やテープの手切り編集も出来ない時代であったので、前半の収録は録画状態のVTRを止めること無く、演技を休み無く続けていくいわゆる一発撮りであり、収録過程は生放送と同じであった。
当時の視聴率調査は、年に数回、1週間程度の調査期間を定めて行われるものであったため、このドラマの視聴率は記録に残っていない[3]。ちなみに東京では、ラジオ東京テレビのほかには、NHK・日本テレビが開局したのみであった。
スポンサーCMは、ドラマの本編中には一切挟まずに、本編前後で放映され、本編中には6回の提供クレジットが表示されただけであった。また本編後のサンヨー洗濯機の生CMは当時ラジオ東京アナウンサーであった吉村光夫が担当していた。
この1958年テレビ版は、翻訳されて西ドイツでも放送。海外で放送された初めての日本のテレビドラマとなった[4][5]。国内ネット局ではラジオ東京のほかに、大阪テレビ放送(現在:朝日放送への統合を経て朝日放送グループホールディングスとして持株会社化)、山陽放送、RKB毎日放送の計4局であった[4]。放送の翌日に開局した静岡放送テレビと、テレビ本放送開始4日前でサービス放送期間中だったラジオ新潟テレビ(現在:新潟放送)は、1958年12月21日のラジオ東京での再放送をマイクロネットし、静岡・新潟両県内に向け放送した[4]。本放送の時点で開局済みだったTBS系列の中部日本放送、北海道放送、信越放送では事実上、日本テレビとのクロスネット、かつ、当時は深夜に準ずる時間帯との理由から放送されていない[4]。
映像の現存状況
裁判以降のシーンが生放送という放送形態であったが、1958年に日本国内で導入されたばかりの2インチVTRで、番組の全編が記録されている。この番組全編のVTRは、TBSに現存する最古の番組映像資料として、TBSのアーカイブに保管されている。
全編を収録したテープが存在しているため、何度か再放送されている。
- 1958年12月21日 16:00 - 18:15 : 芸術祭受賞記念として(静岡放送テレビ、ラジオ新潟テレビでマイクロネット)[注 5]
- 1959年12月26日 15:50 - 17:30 : 橋本脚本・岡本演出の「いろはにほへと」芸術祭大賞受賞記念として
- 1975年4月5日 24:00(4月6日0:00): TBS開局20周年「芸術祭受賞ドラマシリーズ」として
- 1983年1月31日: NHKにて、テレビ放送30年を記念した特別番組「ドキュメンタリー ブラウン管の一万日~テレビは何を映してきたか~」第1部の中で放送[6](番組内のスポンサー部分のテロップは"コマーシャル"のロゴでマスキングされた)
- 1991年10月12日 12:00: TBS開局40周年記念の特別企画「テレビ名作シリーズ」として
- 1996年6月15日 15:30 : フランキー堺の追悼番組として
そのほか、TBSチャンネルでも年に1回 - 3回のペースで、1994年版とともに再放送が実施されている[注 6]。
初の放送からちょうど50年を迎える2008年10月31日には、DVD化されて発売、初のソフト化となった。
これらの映像は本放送時と異なり、スタッフクレジットの「原作」の部分に橋本・加藤、両者の名が併記されており、本編中に提供クレジットの表示がない。また、製作著作のクレジットは「TBS」(1961年 - 1991年に使用された2代目略称ロゴ)に差し替えられているが、理由については、以下の「裁判」の項を参照。
また、横浜の放送ライブラリーでは、1994年版とともに保管されており(DVDおよびビデオ・オン・デマンド形式)、無料で閲覧することができる。ここに保管されているオリジナル版では、TBSチャンネルの再放送およびDVD収録の映像とは異なり、本編中に提供クレジットが表示されている。製作著作のクレジットについては、こちらも「TBS」に差し替えられている。この他、Paravi(U-NEXT)による動画配信(有料)も行われている。
裁判
劇中の主人公の遺書が、元陸軍中尉で自らも戦犯として裁判を受けた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」[注 7] の遺言内容と酷似していた。それを友人から伝え聞いた加藤は、ドラマの脚本を執筆した橋本に対して自分の原作権を認めるよう求めたが、橋本はこれを拒否。そこで加藤は、ドラマの映画化(1959年版)が決まった際、配給元の東宝と、自分が原作者としてクレジットされることを条件に契約し、橋本もこれを受諾した。
ところがラジオ東京テレビ(2013年、現在:TBS)がクレジットを改めずにまたドラマを再放送したため、加藤は当時のラジオ東京テレビと橋本を著作権法違反で告訴した。この裁判で[注 8] の結果、加藤の訴えは認められた。そのため2013年現在では題名および遺書の原作者として「加藤哲太郎」の名がクレジットされるようになっている。なお、加藤自身も主人公同様に戦犯として巣鴨プリズンに勾留、死刑判決を受けているが、後に再審の末、減刑されて釈放されている。
のちに中野昭夫がドラマの原案者は自分であるとして、橋本を相次いで訴えた。しかし、1975年(昭和50年)に東京地方裁判所で敗訴した損害賠償などの請求をはじめ、ことごとく敗れている。
「狂える戦犯死刑囚」との異同
以下は、加藤が志村郁夫名義で『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(1953年、飯塚浩二編、光文社)に寄稿した「狂える戦犯死刑囚」の一部である。ドラマで削除された部分は、変更された部分は下線で示す。ただし、漢字やカタカナの使い分けなど、細かい異同は除いた。また、この手記での遺書は衛生兵であった赤木曹長のもの、という設定(モデルはいたが、ぼかしてフィクション仕立てにしたもの[注 9])になっており、一介の二等兵であった豊松の設定と異なる。現実には、二等兵で死刑が執行された戦犯はいないとされる[注 10]。
けれど、こんど生れかわるならば、
いや、私は人間になりたくありません。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです — 加藤哲太郎(志村郁夫名義)、『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(1953年、飯塚浩二編、光文社)
(この間加筆挿入)
牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。
どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
妻や子供を心配することもない。