良忠寺

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位置 北緯35度31分59秒 東経139度40分50秒 / 北緯35.53306度 東経139.68056度 / 35.53306; 139.68056座標: 北緯35度31分59秒 東経139度40分50秒 / 北緯35.53306度 東経139.68056度 / 35.53306; 139.68056
院号 然阿院
宗派 浄土宗鎮西義
良忠寺りょうちゅうじ
本堂
所在地 神奈川県横浜市鶴見区矢向4丁目21-36
位置 北緯35度31分59秒 東経139度40分50秒 / 北緯35.53306度 東経139.68056度 / 35.53306; 139.68056座標: 北緯35度31分59秒 東経139度40分50秒 / 北緯35.53306度 東経139.68056度 / 35.53306; 139.68056
院号 然阿院
宗派 浄土宗鎮西義
本尊 阿弥陀如来
創建年 弘安元年(1278年
開山 良忠
正式名 記主山然阿院良忠寺
良忠寺の位置(横浜市内)
良忠寺
良忠寺
良忠寺 (横浜市)
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山門

良忠寺(りょうちゅうじ)は、神奈川県横浜市鶴見区矢向にある浄土宗鎮西義の寺院。山号は記主山、院号は然阿院、当初の本尊は薬師如来弘安元年(1278年)浄土宗3祖良忠開創

正元元年(1259年)に鎌倉入りし、武蔵国の教化活動のためしばしば鵜の木光明寺を訪れていた良忠上人が、霊夢を感得し鶴見川岸に於いて薬師の尊像を得、安置するため一宇を建立したことに始まるという[1]永仁元年(1293年)良忠上人は伏見天皇より記主禅師の諡号を賜り、以来山号を記主山と称す。一時衰微したが慶運寺の末寺となった後、四一世讃誉徹玄の代の正德2年(1712年)京都知恩院の直末になり、本堂の改築・諸荘厳を完備して寺門の興隆をみた。本尊阿弥陀三尊で、中尊は木彫の坐像:長さ二尺、両脇士坐像は各々長さ一尺五寸、惠心僧都作といわれる[2]

堂宇

現在の諸堂宇は江戸時代に建立され、往時の面影を残し寺宝も多数保存されている。

本堂

四十一世讃譽徹玄の代に建てられた本堂は関東大震災で倒壊の厄に遭い、現在の本堂は、大正14年(1925年)に再建されたもので、本堂桁行七間、梁閒九間、向拝付き、銅葺、破風造である[3]

観音堂

山門を入った左手にあり、桁行九尺、梁間二間、瓦葺。堂内に長さ一尺三寸の如意輪観音を安置する。明和年中、村内の薔薇の叢生する地から得て奉納安置した所である[3]

鐘楼

山門を入った右手にあり、明和6年(1769年)4月には、元禄17年(1704年)の古銘を刻み梵鐘を再鋳した[2]。しかし、この梵鐘は第二次世界大戦の際に他の仏具と共に供出され、昭和25年(1950年)11月に総理大臣吉田茂揮毫の「梵鐘如雷震八音暢妙響」を鋳込み、造り換えられた。

その他

矢止め地蔵

本堂の前には、新田義貞にちなむ矢止め地蔵がある[4]

新田義貞の鎌倉攻めの時に、多摩川を挟んで合戦があり、その際、義貞の放った矢が当地まで飛んで、小川の橋のたもとの松の木に刺さった。矢には戦勝祈願の南無八幡大菩薩の文字が書かれており、それを見た村人達は、一体の地蔵菩薩を建立し戦死者供養をした。そして、その地蔵を矢止め地蔵と名付け、地名を矢向と呼ぶようになり、橋を地蔵橋と名付けたという。もともとは尻手商店街中央にあったが、昭和2年(1927年)、市営バスの通行の為に良忠寺に移設された。又、矢は古いを越えて飛んで来たので、塚のあった地を塚越という。

寺宝

  • 薬師像一躯 - 良忠が鶴見川岸に於いて得た尊像、この寺のはじまり。
  • 記主禅師木像 - 浄土宗の宗宝でもある。

アクセス

脚注

参考文献

外部リンク

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