岩国工高在学時は強打の内野手として知られたが、甲子園には出場できなかった。1970年のドラフトで大洋から7位指名されるも拒否し、亜細亜大に進学。東都大学野球リーグでは1971年の春季リーグで優勝を経験するが、自身の活躍の場はなく、その後は優勝に届かなかった。リーグ通算50試合出場、135打数18安打、打率.133、1本塁打、7打点。大学同期に林龍郎がいる。
1974年のドラフトでロッテより3位指名を受け入団。入団当初は主に遊撃手として起用されたが、飯塚佳寛の壁を破れず、あまり出場機会はなかった。1979年には外野手に転向し、一軍に定着。1983年には主に右翼手、六番打者として94試合に先発出場、16本塁打を放つ。翌年には有藤道世の外野手転向、高沢秀昭の台頭もあって定位置を譲るが、その後も準レギュラーとして活躍した。1987年限りで現役引退。引退後は同球団のスカウトとして同郷の河本育之らを担当、退団後は故郷岩国市内でスポーツ用品店を営む。