花山院家教

From Wikipedia, the free encyclopedia

 
花山院家教
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 文応2年1月20日1261年2月20日
死没 永仁5年5月26日1297年6月17日
官位 正二位左近衛大将権大納言
主君 亀山天皇後宇多天皇伏見天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院通雅、母:中院通方の娘
兄弟 家長家教定教、雲雅、円雅
大宮院権中納言(法性寺雅平の娘)
家定
テンプレートを表示

花山院 家教(かさんのいん いえのり、旧字体󠄁山院 家敎)は、鎌倉時代中期の公卿太政大臣花山院通雅の次男。官位正二位権大納言左近衛大将

弘長2年(1262年)正月に従五位下叙爵。同年3月に父の譲りで従五位上に昇叙。弘長3年(1263年)に正五位下に叙せられ、文永3年(1266年侍従に任ぜられる。

文永5年(1268年従四位下侍従に叙任。文永7年(1270年)には従四位上・阿波権介となり、文永9年(1272年)に正四位下に叙せられる。文永10年12月(1274年2月)に右近衛権中将に任ぜられ、ほどなくして左近衛権中将に転じる。建治2年(1276年従三位備中権守に叙任されて公卿に列し、同年さらに参議に任ぜられるが、父・通雅の薨御によりに服した。

建治3年(1277年正三位、建治4年(1278年従二位に昇叙。弘安2年12月(1280年1月)権中納言に任ぜられる。弘安6年(1283年)権中納言を辞退するが同年中に還任し、弘安7年(1284年)正二位に叙せられた。また、大宮院(西園寺姞子)の院司を務め、弘安8年(1285年)の北林准后(四条貞子)の九十賀に奉行してその次第を作進している[1]正応元年(1288年)には中納言に転じ、同年さらに権大納言に昇進した。正応2年(1289年)には春宮大夫を兼ね、正応5年(1292年)には左近衛大将も兼帯した。

永仁2年(1294年)正月16日に踏歌節会内弁を務め、2月には久子内親王院号を決定する議定において、家教は花山院師信らと共に永陽門院を推して採用されている[2]。同月末に祖父・定雅の薨御により喪に服し、4月に復任した。永仁5年(1297年)5月15日、病により職を辞任して21日に出家。26日に薨去。享年37。

20代より儀式の次第を作進し、正応2年(1289年)や正応4年(1291年)の正月の叙位の議では執筆を務めるなど、有職故実に詳しかった。

官歴

系譜

脚注

Related Articles

Wikiwand AI