花山院親忠
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学問を究める華族
大正7年(1918年)8月3日、花山院親家の長男として、東京府に生まれる[4][5]。
大正13年(1924年)3月11日に父の親家が薨去すると[4]、7月15日、6歳で家督を継承し襲爵した[4][6]。第二開成中学校を経て[注釈 1]、昭和12年(1937年)、國學院大學国文学科に入学[1]。武田祐吉や折口信夫に学び、『御湯殿上日記』を研究した[1]。
昭和16年(1941年)、國學院大學国文学科を卒業[5]。神祇院嘱託となる[5]。昭和20年(1945年)、兵役解除となった[1]。
教育者・神職として
昭和21年(1946年)、氷川神社禰宜に任じられ、明階を授階した[1]。しかし自邸が戦災で焼失しており、親戚である鍋島直紹[注釈 2]に招かれて佐賀県に移住[1]。佐賀県立鹿島高等学校教諭となり[1]、佐賀県文化財専門員を務める[5]。その探求心から佐賀県民俗学会を創設した[1]。
昭和44年(1969年)、佐賀県教育委員会学校教育課長に就任した[5]。
昭和46年(1971年)、佐賀県立三養基高等学校校長に就任した[5]。同年、春日大社宮司に任命された[5]。その後、奈良の鹿愛護会会長、春日古楽保存会会長、南都楽所会長などに就任した[1]。
昭和50年(1975年)、奈良国立博物館評議員に就任した[1]。
昭和53年(1978年)、浄階・神職身分一級を贈られた[2]。
昭和54年(1979年)12月4日、昭和天皇・香淳皇后が春日大社に赴くと、休憩所に於いて宮司である親忠、権宮司の千鳥祐佶・中根義明が拝謁した[8]。親忠が春日大社の沿革・鹿について説明した[9]。天皇・皇后の本殿での拝礼後、舞殿に移ると、諸司舞の真榊曲が演じられ、これについても親忠が説明した[9]。
昭和55年(1980年)、財団法人春日顕彰会会長に就任した[1]。
昭和56年(1981年)5月24日、昭和天皇が奈良公園内の飛火野に向かうと、親忠が奈良の鹿愛護会会長として飛火野の歴史を説明し、鹿寄せの視察を受けた[2][10]。
昭和58年(1983年)1月14日、歌会始が開かれると[11]、親忠はこの読師を務めた[2]。同年中には、國學院大學評議員、奈良県古都風致審議会委員に就任した[2]。
昭和59年(1984年)、奈良県教育委員会委員に就任した[2]。また同年開催のロサンゼルスオリンピックに際しては、その芸術祭に南都楽所を牽引して渡米、各地で和舞と舞楽の公演を開催し、またニューヨーク国連本部で講演した[2]。
昭和61年(1986年)6月10日、連翠南に於いて、神宮大宮司慶光院俊以下勅使参向神社の宮司等が昭和天皇に拝謁、親忠は挨拶を述べた[12]。その後、奈良県教育委員会委員長に就任した[2][注釈 3]。
人物
栄典
著書
- 『ふるさとの散歩道:肥前・筑後』金華堂、1971年。
- 『春日の神は鹿にのって』清水弘文堂、1987年。