若宮 (海防艦)
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| 若宮 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 建造所 | 三井造船玉野造船所 |
| 運用者 |
|
| 艦種 | 海防艦 |
| 級名 | 占守型海防艦 |
| 建造費 | 5,112,000円(予算成立時の価格) |
| 艦歴 | |
| 計画 | マル急計画 |
| 起工 | 1942年7月16日 |
| 進水 | 1943年4月19日 |
| 竣工 | 1943年8月10日 |
| 最期 | 1943年11月23日被雷沈没 |
| 除籍 | 1944年1月5日 |
| 要目(竣工時) | |
| 基準排水量 | 870トン |
| 全長 | 77.70m |
| 最大幅 | 9.10m |
| 吃水 | 3.05m |
| 主機 | 艦本式22号10型ディーゼルx2基 |
| 出力 | 4,200hp |
| 推進 | 2軸 |
| 速力 | 19.7ノット |
| 燃料 | 重油200トン |
| 航続距離 | 16ノットで8,000海里 |
| 乗員 | 定員146名[注 1] |
| 兵装 |
三年式45口径12センチ単装速射砲x3基 25mm連装機銃x2基 九四式爆雷投射機x1基 爆雷x36個 |
| 搭載艇 | 短艇x4隻 |
| ソナー |
九三式水中聴音機x1基 九三式水中探信儀x1基 |
若宮(わかみや)は、日本海軍の海防艦で、普遍的には択捉型海防艦の8番艦とされている[1]。海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の12番艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては、水上機母艦若宮に続いて二代目[注 2][注 3]。艦名の由来は長崎県の若宮島から。 若宮は三井造船玉野造船所において建造され、1943年(昭和18年)8月10日に竣工[1]。同月下旬、第一海上護衛隊に編入される[4]。同年11月23日、船団護衛中に米潜水艦ガジョンの魚雷攻撃をうけ、沈没した[5][6]。
竣工まで
マル急計画の海防艦甲、第310号艦型の8番艦、仮称艦名第317号艦として計画。1942年(昭和17年)7月16日、三井造船玉野造船所で起工。1943年(昭和18年)4月5日、若宮と命名。1943年(昭和18年)4月19日進水。7月10日、艤装員長に河原政頼少佐が着任。7月17日、艤装員事務所を設置。8月10日、竣工[7]。河原少佐(若宮艤装員長)は若宮海防艦長となる。同日附で、若宮艤装員事務所は撤去された。若宮の本籍は呉鎮守府と定められる[8]。呉鎮守府警備海防艦として呉防備戦隊に編入された[9]。呉海上防備部隊に編入[10]。
船団護衛
1943年8月11日、若宮は玉野から呉に移動。同地で建造時の不備が見つかったため、その修正作業を受ける。19日、呉から佐伯に移動。23日、佐伯から呉に移動。25日、若宮は呉防備戦隊から除かれ、駆逐艦春風が編入された[10][11]。若宮は南西方面艦隊隷下の第一海上護衛隊に編入される[4][注 4]。その後門司に移動し、31日に輸送船7隻からなる第192船団を特設砲艦北京丸(大連汽船、2,266トン)と共に護衛して門司を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。9月4日0700、船団は馬公に到着する。
9月5日1830、若宮は馬公を出港し、6日0940に基隆に到着。9日0900、マ04船団を護衛して基隆を出港。12日1400、船団は門司に到着。21日1600、特設運送船国島丸(飯野海運、4,083トン)他輸送船9隻からなる第199船団を護衛して門司を出港。26日1400、船団は高雄に到着。30日1715、若宮は高雄を出港して対潜掃討を行う。10月1日1850、高雄に到着。
10月3日1830、陸軍輸送船妙義丸(東亜海運、4,021トン)他輸送船3隻からなるC船団を護衛して高雄を出港。6日1550に船団はマニラに到着。8日0930、若宮はマニラを出港して対潜掃討を行う。10日1100、マニラに到着。12日0945、陸軍輸送船りま丸(日本郵船、6,989トン)他輸送船2隻からなるD船団を護衛してマニラを出港。20日1100、船団は昭南に到着。22日1300、特設運送船隆興丸(太洋興業、2,831トン)他輸送船4隻からなる第630船団を護衛して昭南を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。25日1230、先行船団はサンジャックに到着。1330、若宮はサンジャックを出港し、1700にサイゴンに到着。26日、第630船団の残りがサンジャックに到着。27日1600、若宮はサイゴンを出港し、1900にサンジャックに到着。28日1600、1A型戦時標準貨物船旭山丸(宮地汽船、6,493トン)他輸送船12隻からなる第437船団を護衛してサンジャックを出港。29日1900、カムラン湾に到着。30日1500、カムラン湾を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。11月6日2000、船団は高雄に到着した。
11月9日0930、若宮は高雄を出港し対潜掃討を行う。1800、高雄に到着。11日0740、特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)他輸送船4隻からなるヒ14船団を護衛して高雄を出港。13日、大長塗山に到着。14日0930、大長塗山を出港。15日、海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎海軍大将)の新編にともない[13]、第一海上護衛隊も同部隊の麾下となった[14][15]。16日、船団は門司に到着[12]。
沈没
1943年(昭和18年)11月20日1800、若宮は海軍配当船で応急タンカーの五洋丸(五洋商船、8,469トン)他輸送船2隻からなるヒ21船団を護衛して門司を出港した。23日0330、船団は米潜ガジョン(USS Gudgeon, SS-211)に発見される。ガジョンはまず若宮に向けて魚雷を6本発射。うち1本が若宮の左舷中央部電気室付近に命中し、若宮は2つに折れてわずか15秒で轟沈した。その様子は、「真珠湾攻撃で爆発を起こした米駆逐艦ショー(USS Shaw, DD-373) のようであった」と記録されている[16]。若宮を屠ったガジョンは、0338に貨客船熱河丸[17](大阪商船、6,784トン。内地~台湾連絡船、約1050名乗船)[注 5]の左舷石炭庫他に魚雷を2本命中させ、さらに逓信省標準TM型タンカー一洋丸(浅野物産、5,106トン)と五洋丸にも損傷を与えた[19]。0520、ガジョンは熱河丸に対して魚雷を3本発射し、右舷中央部他に魚雷2本を命中させて撃沈した[20][21]。若宮では157名が戦死し、海防艦長河原政頼少佐以下生存者4名が救助された[18][注 6]。 沈没地点は舟山島南方沖[22]。北緯28度00分 東経122度09分 / 北緯28.000度 東経122.150度[23]、もしくは北緯28度38分 東経122度05分 / 北緯28.633度 東経122.083度[24]。高松宮宣仁親王(大本営海軍部、海軍大佐、昭和天皇弟宮)は若宮の沈没状況を以下のように記録している[23]。
○第一海上護衛隊(二四-〇七四七) ヒ二一船団(五洋丸、一洋丸、熱河丸、護衛艦「若宮」)、敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ、「若宮」0340/23、28°-0′N 122°-9′Eニテ、熱河丸 0430/23、28°-43′N 122°-07′Eニテ沈没セリ。五洋丸、一洋丸及上海方面特根部隊ニテ救難中。1600迠ニ判明セル救助、五洋丸380名、一洋丸121名、「笹島」100名、蛭子丸一名、計582名。
《 熱河丸ハ大連連絡航路カラ台湾航路ノ相ツグ沈没ノ代船ニ初メテノ航海ナリ。「若宮」ハ従来護衛上手ナリトノ話アリシモノ。熱河丸乗員ハ1050名、「若宮」120名位ナリ 》 — 高松宮宣仁親王日記 第七巻 129-130ページ(昭和18年11月23日記事より抜粋)