若生文十郎
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天保13年(1842年)、伊達譜代石川氏の従臣で、延宝3年6月半右衛門代、知行5貫文、御切米5両、御扶持7人分拝領の武士の家に、父徳之進(景良)と音羽氏出身の母から長男として生まれる。若生家の給地は、東山の會慶村(大東)と砂子田村(藤沢)にあった[2]。兄弟は、弟に音羽安成(母方の音羽家を継ぐ)、若生精一郎、妹に鶴代の4人であった。14歳の時に父を喪い、外祖父の音羽円蔵の薫陶を受け、後に藩儒の日野徳之輔に就いて経書・歴史を学び、富松翁に詩文を学ぶ。若生家は代々日下一旨流(くさかいっしりゅう)の槍術指南を務めていたが、当時文十郎はまだ幼いためその業を継ぐ事が出来ず、高弟の田手雄五郎が代って指南を務めていた。文十郎は田手に就いて槍術を学び、その奥義を極めて遂に指南に復した。養賢堂にて学び、知勇に長けていた。[1][3]
経歴
京都視察
文久元年(1861年)京都にて騒擾の兆があり、国老但木土佐の内命を受け京都に行き、近衛家を護衛(近衛家と伊達家は婚籍関係にあった関係で警備)した。その間各藩の志士と交際し京都情勢についての最新情報と、自らが感じるところをしばしば意見書として国老に呈した。この京都における情報収集の時の様子は、槍の弟子丹野清貞が「京都の島原遊廓に仮住まいしており、仙台脱藩士若生文十郎隅」と襖に大書して掲げていたとか「廓内楼主毎夜その講義を聞き、一切の費用を楼主たちが負担していた。」と語ったこと、文十郎の名声を聞いて桂小五郎も来て面談するや文十郎の学識に敬意を表したこと、仙台藩士菱沼勤一郎(剣客)が、たまたま文十郎と出会い、その豪勢ぶりに驚嘆したと生前言っていたことなどからうかがうことができる。[4]こうして仙台藩にもたらされた文十郎の意見は多く受け入れられた[1]。文久2年(1862年)6月、任期満了となって仙台へ帰るが、再度交際官を命ぜられ7月京都に赴いて天下の形勢を視察した。江戸では世界一周の快挙を成し遂げ外国事情に詳しい玉虫左太夫が探索方を指図し、江戸伊達屋敷の学問所であった順造館にも血気盛んな若者が集まっていた。
この頃より、世情は動乱の暗雲に覆われ、江戸・京都へと脱藩さえする者も現れ「天誅」の名のもとにテロ暴徒が暗躍、新選組は京都守護の会津藩に帰属した。仙台藩内でも言論が二分されていた。玉虫とその薫陶にあずかった文十郎をはじめとした養賢堂・順造館にいた一部の先見派たちが和平を主張し暴発防止の周旋に奔走する一方、泉田志摩や西大條四郎等、仙田藩陪臣の中には王政復古に憧憬する傾向の者たちがいた[5]。文十郎はその後もしばしば建議したが、佐幕派とみなされそれら勤王派の反対勢力がそれを妨害して思うように建議がなされないことがあった[1]。
なお、玉虫と若生について、生真面目な探索で周旋し、薩摩・長州や坂本龍馬等と異なり有志浮浪の志士列伝に登場しないが、これは明治新政府が創作した偏見の偉人伝に過ぎないからで、しいて言えば西郷隆盛に匹敵するくらいに剛胆に探索を行い、時勢判断に長けていた志士に文十郎が値すると勝海舟は述べた[6]。
薄衣での平穏な日々「佛山先生」
こうした状況を受け、文久3年(1863年)、職を辞して家に帰り、専ら槍術を指南し、傍ら文学を教授してわずかに自分の志を慰めた。元治元年(1864年)6月29日、江戸番馬上役(仙台藩では 100 石以上)に推挙された[7]が、年を経ずしてこれも辞退した。その後は、実弟の音羽安成が「領内諸郡村ヲ遊歴シ東山ニ止ル一年全詩文ヲ教授」[8]としたためているように、諸村を遊歴して東山(薄衣等)に留まった。東山薄衣宿の一画、阿弥陀堂の下に留まり、子女にまで詩文等を教え、庶民教化に向け人材育成を試みていた。その子弟であった山村美穂(薄衣小学校初期の訓導)は、「漢学國震録ヨリ物理化学筆算ヲ授ケラレ」[5]と彼に教わった。阿弥陀堂は宿場の高台にあり、伊兵衛又太郎父子の所有地で、往古は法憧寺という古刹であるため、薄衣城主千葉清村の33回忌供養碑(貞治5年(1366年)板碑)もあり、小名(小字)は道場と呼ばれ、戦後まで旧村役場があった場所である。この阿弥陀堂の下に寄宿し、教場に使用した文十郎は村人に親しまれ、「佛山先生」と呼ばれるようになった[9]。
大政奉還から会津救解
慶応3年(1866年)11月徳川慶喜が大政奉還をし、慶応4年(1868年)1月27日鳥羽・伏見の戦いが始まり、徳川慶喜が朝敵とされた。薩摩・長州と公家岩倉具視の策謀によって討幕の勅令が出された。幕府を見限り新型武器を密貿易で整えた薩摩・長州藩が主導権を持ち、西郷隆盛は江戸に討幕の進軍を始めた。17日、京都守護に当たり慶喜に従っていた会津藩主松平容保の仙台藩単独での討伐の命を受け、坂本大炊が2月下旬勇んで仙台に帰藩。仙台藩の門閥重臣は戦に消極的で、騒然としたが、泉田志摩や三好監物も勤王派だったため、奥羽鎮撫総督府の総督となった九条道孝や、その実質的な指揮を執っていた世良修蔵等に従い会津討伐を行うとほぼ合議され、薄衣からの出陣準備をした[5]。
しかし、世良の傍若無人な態度に仙台藩内で反発が強まり、物議は分裂しはじめ泉田志摩も瞑想し、藩内は内紛状態となっていった。そうした中、文十郎は泉田志摩等の重臣たちを前に真正面から立ち向かい、「臣惟うに会の素情必ず天朝に抗せんとするものにあらず、唯一薩長あるを憾むのみ、然らば則ち薩長の敵にして吾討つべき敵にあらず、況や我に於て一怨恨もなきおや、故に府下出馬前に一使を遣はし各情を論じ開城せしむべし」(私が思うには、会津としては朝廷に抵抗したいわけではなく、ただ薩長を恨んでいるだけです。したがって、(会津藩は)薩長の敵であって我々が討つべき敵ではありません。ましてや私たちとしては会津に怨恨感情はまったくありません。よって会津へ軍勢を差し向ける前に使いを遣わして、しっかりと話し合うことで開城させるべきです)といった上書を提出した[10]。泉田志摩等は、文十郎・玉虫を側近から排除すべきだと但木土佐詰め寄り、あるいは誅殺も考えていたが、但木は若生を支持した。これに和田織部も同意した形で、慶応4年(1868年)4月7日、国内の紛争を極力避けるべきであるという非戦主義に基づき、文十郎は近習に抜擢され、玉虫とともに会津へと向かう。これより文十郎と玉虫の二人は奥羽越列藩同盟結成へと向かっていくことになる。
まだ若年故に文十郎を副使、玉虫左太夫を正使として会津に赴き藩の事情を訊問し、後に再び正使として会津に行き[11]、藩主及び国老等と対談し、伏見事件の真相を詳知し、会津救解策として削封・謹慎・首謀を誅するの3つの条件で謝罪するとの内約を得て帰藩した。しかし、すでに寒風沢に上陸し、養賢堂を本陣としていた新政府の奥羽鎮撫総督府[12]の世良修蔵は、文十郎・玉虫の両名が会津潜入で裏工作をしていると知って敵視しており、帰藩後二人を呼び出し、そこで文十郎と玉虫は会津藩との内約を上申したが、受け入れられず、二人は世良に罵倒される。文十郎の実弟音羽安成は、明治27年2月24日の奥羽新聞紙上でそのことを紹介している。「一閲し、たちまち之を投げ、うちののしって曰く。とつとつ奥夷順逆の大義を知らず、何の顔ありて乃公を謁せんとする。修蔵総督に示さば天下の大事或は是れより破れんと、足を揚げて文十郎の面を蹴ること一再、遂にその面にツバして立つ。文十郎ときに二十七歳。ここに至り奮然として立ち、まさに修蔵を一撃に倒さんとす。左太夫の止めるところやむなし。」[8](さっと目を通すと、たちまちそれを放り投げ、大声でどなりつけて言った。「お前は奥夷(東北)鎮撫の大義もわからぬまま、どの面を下げてこの俺様に謁見しようというのか。これを修蔵(私)が奥羽鎮撫の総督に見せたら、天下の一大事があるいはここから破綻するかもしれないのだぞ。」そう言って足を上げ、文十郎の顔を一度ならず二度までも蹴り、ついにはその顔に唾を吐いて立ち去った。文十郎はこのとき二十七歳であった。ここに至って彼は憤然として立ち上がり、今にも修蔵を一撃のもとに倒そうとしたが、左太夫に制止され、やむなく思いとどまった。)
奥羽越列藩同盟結成と瓦解
文十郎と玉虫の上申が無下にされてしまったため、早期の会津討伐を迫る世良修蔵等の圧力に仙台藩主伊達慶邦も抗しがたくなり、藩内でも会討派と非戦派の暴徒化も寸前となった。苦肉の策として慶邦がとったのが、形だけの七千人規模での出兵だった。米沢藩主上杉齋憲と但木土佐は書面で会津降伏条件を説明するため、白石城で会議を開いた。後に文十郎・横田官平が米沢に到着し、仙台藩と米沢藩で会津降伏の周旋をすることに決める。その恭順条件は開城・削封・重役の斬首というものだった。しかし、その条件を伝えるも、会津藩は拒否し、その抗戦決意が固いことを最終確認するだけに終わった[5]。
一方「会津死謝」というすでに決定された命令を達するために行動する世良修蔵等は会津への襲撃を決行する。そのさなか、瀬上主膳・姉歯武之進の配下に世良の密書が舞い込む。その内容の一部が、「奥羽各藩は皆敵と見なして逆撃の大策を実施致したく」[1]や、「皇軍が大挙して討ち入る時は、少ない軍艦でも一、二艘を酒田沖へ出向かせ、兵隊の人数を増加させて、前後から挟撃する方法以外に無いです」[1]といった内容であったため、瀬上・姉歯に加え数名が、世良が女郎と共に投宿していた金沢屋に切り込み世良を拉致し、翌日河原にて首をはねた[5]。
この世良修蔵の誅殺は、薩長との交戦の火ぶたを切ったも同然であり、仙台・米沢両藩による九条道孝総督への3通の嘆願書も却下され、仙台藩は薩長の軍門に下り会津藩を滅ぼすか、奥羽越列藩同盟の名において東北越後諸藩と結束して薩長と戦うか、二択を迫られる形となった。伊達慶邦は会津討伐の兵を引く代わりに、薩長を迎え撃つ迎撃策を文十郎や玉虫左太夫に委ねたという[13]。家老但木土佐の側近首脳部にあった玉虫・文十郎・学事顧問の大槻盤渓は、佐幕派というより、傲慢で日本国の先見的なビジョンを待たない薩長に政権を握らせれば諸外国の介入にひとたまりもなくなるのは必定であろうと不安を感じており、その中で仙台藩を主軸とした公平な政権を模索し、薩長同盟に匹敵する奥羽越列藩同盟をもって和平工作とする構想が浮上していった[14]。
27藩の代表が会津処分について嘆願し、続いて仙台・米沢藩主の呼びかけで奥羽25藩の重役が白石城に参集し、5ヶ条の盟約を取り交わし、大義を天下に問おうと決した。同盟を結ぶに当たり、文十郎は軍務局副頭取を命じられ列藩重役との協議の事務を所掌した。さらに、越後諸藩に同盟を求めて出向き、やがて奥羽越列藩同盟が具現した。玉虫左太夫が頭取を辞退した後、国老の意を受けて文十郎は自ら頭取の任に当たり軍務局を統括した[1]。但木土佐と江戸の大童信太夫・松倉良輔は、これを会津討伐のための軍備としながらも、新政府軍を「賊軍」と決めて、決戦有事の対応策をすでに考えていた[13]。
7月13日、輪王寺宮が白石城への到着、同盟の盟主に据えられた。文十郎は盟約諸草案の作成にかかわるが、この時すでに平城が開城し、降伏嘆願のなし崩しも始まっていた[13]。
後に秋田藩が離反し、仙台藩の大国としての統括は失墜し、但木と玉虫は前線を離脱した。但木ら重役は自責の念と万策尽きた思いで匙を投げ、若手軍部の坂英力・文十郎に軍事を任せ、参政をおりた。文十郎は前線に身を置き続け、近習兼郡奉行、次いで近習番頭格の軍事参謀に推挙され、農兵徴募を実施し強兵化に尽力。仙台藩ではその農兵隊の名称を「折衝隊」といった。農兵隊といっても、身体強健な者が選ばれ、編成の多くは葛西旧臣等の子孫たちであった[13]。こうして集まった勇兵は一隊50名で、前線部隊は軍事参謀である文十郎に預けられることになる。武士の気構えをもって相馬境で官軍を迎撃する。相馬藩が反盟すると伊具郡筆甫村に出陣し、隊長の今泉三之助、丹野惣七等を指揮して戦功があった[1]。
最期
戦局は悪く、財政難も重なって、藩論が一変して降伏に決すると、文十郎は郷里に帰り一書を上司に提出し、藩主には降伏に至った罪は無く、全て国老と我輩等に責任が有り、切腹してその罪を謝罪したいと願い出た。しかし、この願いは受け容れられず11月に国老の和田織部から函館に脱走した旧幕臣及び我藩の脱兵の挙動視察を命じられ、行商に変装して函館に潜行し数多の難苦を経て復命した。明治2年(1869年)1月、郡奉行兼応接役を命ぜられ、削減地引渡しを担当して遠田郡涌谷に居たが、4月2日、鎮撫総督府の久我通久の東下に際し仙台藩士増田繁幸の讒言により、文十郎は出張先においてその職を解かれて逮捕され、仙台に護送された[1]。仙台藩の処分約70名が捕縛の対象となっていた。但木土佐・坂英力・玉虫左太夫・若生文十郎等7名が首謀者として死罪となり、若生は最年少だった。(但木52歳・坂37歳・玉虫47歳・遠藤42歳・安田42歳・和田38歳・若生28歳)[5]
福沢諭吉は当時のことを「この時に政府は既(すで)に処分済の後だから、成丈(なるたけ)平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、左(さ)すれば怪我人も少ないだろうと云(い)う為(ため)に、態(わざ)と久我を択(えら)んだと云うことは、その時私も窃(ひそか)に聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向と聞(き)いて景気を催(もよお)し、生首を七ツとやら持(も)って出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士が遣(や)った。」[15]と述べており、政府も久我もあずかり知らないところで、藩政の主流となった勤王派の仙台藩士たちの手によって過剰な処罰が行われていた。またそのことについて福沢は「何分にも同藩の者が遣やるので誠に危ない。引捕(ひきとら)えて、是(これ)が罪人でございと云いえば、如何(いか)に優しい大目(おおめ)な政府でも唯(ただ)見ては居られない。実に困(こま)った身の有様(ありさま)だと、毎度両人(注:ここでは仙台藩士大童と松倉のこと)と話す中に、私は両人の為(ため)に同情を表すると云(い)うよりも、寧(むし)ろこの仙台藩士の無情残酷と云うことに酷(ひど)く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に酷(ひど)い事をする奴だ」と、述べている[15]。
薄衣で親交を深めた菊池廣吉と三浦喜平太は文十郎との別れを惜しみ、「佐沼に至りて若生氏の旅館を訪問したるに既に仙台に上りたるとの事にて直ちに上仙して先生に面会せり」と文十郎に会いに佐沼から仙台に追った。明治2年4月11日(1869年)、実弟の音羽安成、若生精一郎等は仙台の北境堤町(現仙台市青葉区堤町)の茶亭(梅津屋)に向い、捕吏の監督者である徒目付某の黙許を得て、決別の酒杯をすすめながら、文十郎と死後の養親のこと及び一家の維持について話し合った。その際文十郎は臨死の際着用すための正服を持参してくれるように弟等に依頼し、就縛以後に作成した詩作を示し、悠然として酒を酌みながら吟じて訣別した。[1][5]
文十郎はこの日のうちに牢獄入りを命じられた。罪状は増田の讒言による処分であったため、「国事に関し不束(不測の意)の行動あるため切腹を命ず」という大変曖昧なものであった。これは世良修蔵を斬首した瀬上主膳の新政府による刑が禁錮だったのに比べると重すぎる処罰であった。同14日夕刻、その短い罪状が読み上げられ、家跡を没収の上切腹が命じられた。文十郎は落ち着いて辞世の詩を賦して割腹。享年28歳[1][5]。
就縛後の詩および辞世の詩
中秋襲玉井作 伊具郡筆甫村出陣
白露浮空剣佩寒
精兵争路渡山難
誰知二十年来月
不若今宵玉井看
【白露は腰に帯びた剣に空しく浮かびて寒く 精兵争って急峻なる山道を登る 誰か知るだろうか二十年の年月 今宵玉井を見るにしかず】[1]
就獄途中漫吟
高樹花飛新緑低 黄鶯不語杜鵑啼 此身已作孤囚客 瑞鳳殿前魂夢迷
阡陌紅塵深幾堆 肩輿到處夕陽催 行人不識囚人意 桃李花前漫侑杯
已作孤囚心益閑 将評往事水潺々 比来不似看花路 一帯陰雲緑満山
捕吏堂々護後先 腰間脱剣転蕭然 與窓回首望郷国 太白山頭鎖暮烟
【獄に入る途中の気儘に詠んだ歌】
【高い梢に咲いていた花は散り新緑はまだ浅い。高麗鶯は鳴かずに杜鵑が鳴くのが聞こえる。この身は既に囚人となり、藩祖政宗公が埋葬されている瑞鳳殿の前で魂が迷っている夢を見る
田んぼの畦道には赤く照らされた埃がどの位深く積もっているのか。鶤鶏駕籠に乗って到着したところは夕陽が輝いていた。道行く人は囚人となった自分の気持ちなど知る由も無く、桃李の花の下で花見の杯をすすめている。
既に一人の囚人になると心は益々静かになった。過ぎたことを振り返ろうとすると水がさらさらと流れるようなものである。この頃は花の咲いていた路を見ると往時のものとは違っていて、一帯は雲に隠れて緑が山に満つる時期となった。
捕吏は厳重に前後を警備し、腰には脇差しもないのではなはだ寂しい気がする。鶤鶏駕籠の窓に首を回せば郷里が望め、太白山頭は雲に隠れて暮煙る】[1]
諸弟迎余于道路 余既就縛 亦無可相逢 且話安否賦示
相逢元不若無逢 時聴杜鵑啼一声 憐汝辛酸能養母 丈夫何耐説離情
春去芳叢草色勾 落花風捲幾紅塵 囚人難管勤家事 戒汝忠誠養老親
【諸弟が道に自分を迎えた。自分は既に就縛の身である。二度と逢う事は出来ず、しばらく安否を話して詩を示す】
【初めて逢い合うは逢わざるにしかず。時にホトトギスが一声鳴くのを聞いた。憐れむべきかな汝は辛酸しながら良く母を養育した。丈夫はどうして別れの気持を話せるだろうか。
春になれば香ばしい萌え出た草の色も整った。落花を風が巻き上げて紅塵幾許ぞ。囚人である私は家事に勤めることなどとてもできない、汝に戒める、どうか忠誠して老親を養育せよ】[1]
辞世作
昨是今非任世評 満胸豪気快平生 鋸刀鼎鑊甘於飴 魂焼仙台翠羽城
国事労々廿八強 呼為姦賊也尋常 此身縦作黄泉客 万古難消鐵石膓
【辞世作】
【昨日は是、今日は非となる事の妥当性は世評に任せる。豪気は胸に満ち平生と同様に心地良い。刑罰に使われる道具による苦しみは飴よりも甘く、恐れは全くない。魂は仙台青葉(翠羽)城を繞(めぐ)っている。
国事に疲れるほどに尽力して二十八年以上。奸賊と呼びなす者共がいたとしてもそれもまた普通のこと。この身はたとえ黄泉の客となろうとも【死んだとて】、鉄や石【の様に意思の硬い自分の心】は永遠に消えることはないだろう。】[1]
登場作品
- 熊谷達也『我は景祐』