茂木知宣

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茂木 知宣(もてぎ とものぶ、?-建長8年3月15日1256年4月11日))は、鎌倉時代の武士。茂木知基の子で、子に茂木知盛がいる。茂木氏の2代目当主。官途名左衛門尉

承久4年2月21日1222年4月4日)付の父・知基からの譲状の写しが残されている(『茂木文書』)ことから、この時に家督を譲られたと思われる。御家人の家督継承は正式には鎌倉幕府からの下文下知状などによる所領安堵を得た時点であるが、譲状作成は家督交替の意思表示を明確にした行為と言える。その背景として、知基が泉親衡の乱に連座して一旦失脚後に承久の乱の戦功によって復権した経緯があり、鎌倉幕府との関係を重視した早めの家督交替と推定される[1]

吾妻鏡」島津本によれば、建長3年8月15日1251年9月2日)に鶴岡八幡宮で行われた放生会では、将軍九条頼嗣の行列の先陣の随兵として「茂木左衛門尉知宣」の名が見られる。ところが、同書の北条本では、この人物は「茂木右衛門尉知定」と記載されている(この問題については後述)[2]

建長8年3月15日(1256年4月11日)に嫡男である知盛への譲状を作成しており、『茂木系図』ではこの日に死去したとされている。正嘉2年12月2日1258年12月28日)に将軍宗尊親王から知盛に下された下文には「亡父左衛門尉知宣法師法名空然」が建長8年3月15日が出した譲状に基づいて家督継承と所領安堵を承認した旨の内容が記されていることから、譲状作成当日もしくは程なく死去したと推測される。また、知宣の生前の官途名が左衛門尉であったこともここから確認できる。なお、譲状から安堵まで2年以上かかっているものの、嘉元2年(1304年)に次代の茂木知氏(知盛の子)が下知状(外題安堵)によって家督継承と所領安堵が認められた際も申請自体は前年に行われていることから、手続に一定の時間がかかったことによるとみられる[3]

茂木知定との関係

脚注

参考文献

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