草野信男
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東京都出身。東京帝国大学卒業。1940年東京帝国大学附属伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)に入り、1949年 東京大学 医学博士 博士論文は 「インフルエンザ、ヴィールスによる廿日鼡の肺病変の組織病理學的研究」。[2] 1962年教授。1977年5月山梨勤労者医療協会山梨医学研究所長、1978年5月同会理事[3]。この間、1951年1月には急死した宮本百合子の病理解剖を執刀し[4]、追想録『宮本百合子』(岩崎書店、1951年)に報告文を載せている。
1945年8月、原爆投下後の広島を調査し、1953年5月世界で初めて原爆被害の実態をウィーンの国際医師会議で報告、" Atomic Bomb injuries "(『原爆症』), Tsukiji Shokan (築地書館), 1953 を出版した[5]。1955年の第1回大会以来、毎年夏に開かれる原水爆禁止世界大会に参加。1975年より原水協理事長。1977年5月19日、原水協理事長として、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)代表委員の森滝市郎との間で運動の統一に関する 合意書 に調印、14年ぶりの統一大会実現に寄与した。1983年より原水協代表委員。
1984年6月28-29日の原水協全国理事会で吉田嘉清とともに役員を解任された[6]。戦後すぐに日本共産党に入党していたが、解任直前に離党した[4]。その後吉田らと共に 平和事務所 を発足させ、チェルノブイリ原子力発電所事故被害者救援に取り組んだり、1995年に『原爆症』を再刊、世界の図書館、科学者に贈るなどの活動を続けた[7][8]。市民団体の平和行進に参加すると、「平和運動にもぐりこむかく(撹)乱者」と「赤旗」に報じられたが、「よくネタが尽きないな」と微笑するだけだったという[4]。
死去2か月後に開かれた草野を偲ぶ集いで、数々の逸話が伝えられたという。--医師免状は「若いころ一度もらった」が「だいぶ昔になくしてしまった」。勲章は「幾らで売れるか」しか興味を示さなかった。「先生はなぜ赤信号を無視するのですか」と問われて「信号は安全のためのものだぜ。自分で安全が確認できればいいじゃねえか」。最晩年、一人暮らしの自宅マンションで倒れ、意識を回復した病院で、心配する周囲に「ちょいと冬眠してた」、そのとき実は栄養失調だった。...[1] 趣味が多く、特にスキーや古道具屋巡りが好きだったといわれる[4]。