後輩の有川貞昌によれば、J.O.スタジオへ入社したのは義兄の円谷が在籍していたからであったが、荒木は集団作業を嫌い、自由な表現が可能なニュース映画の道へ移ったという[3]。
東宝では室内作業の責任者を務め、合成のほとんどを手掛けていた[3]。演出助手を務めていた中野昭慶は、荒木の合成に対する執着は凄まじいものであったと評しており、クランクインと同時に合成カットに手をつけても撮了後にまだ完成していないこともよくあったと証言している[4]。
有川は、荒木を先生のようであったと述べており、「技術は円谷から、人間は荒木から」教わったと自任している[3]。