荻野俊重 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代末期生誕 不明死没 治承4年11月12日(1180年12月7日)[1][2]別名 荻野五郎、季重、季時[3] 凡例荻野 俊重時代 平安時代末期生誕 不明死没 治承4年11月12日(1180年12月7日)[1][2]別名 荻野五郎、季重、季時[3]主君 源頼朝、平清盛氏族 横山氏族荻野氏父母 父:海老名季貞[4][5]兄弟 海老名季久、本間義忠、国分有季、海老名季能、俊重、忍長[6][1]子 頼季、時員、時村[4][7]テンプレートを表示 荻野 俊重(おぎの とししげ)は、平安時代末期の武士。 武蔵七党に属する有力な武士団横山党の一族・海老名季貞の子[4][8]。相模国愛甲郡荻野郷を領した[9]。安元2年(1176年)伊豆国の伊東祐親が主宰した狩りに参加し、余興として行われた相撲では山内首藤経俊に勝った竹沢源太という伊豆の武士に勝ち、7勝ののち高橋大内という駿河国の武士に負けたと『曽我物語』にある[10]。元は源氏の家人だったようだが[注釈 1]、治承4年(1180年)石橋山の戦いで大庭景親ら平氏方に属し、源頼朝軍を破る[12][1]。しかし頼朝は態勢を立て直して鎌倉に入り、大庭景親らも敗走した。俊重もまた頼朝が駿河国駿河郡黄瀬川に布陣した際についに降参した[13][14]。同時に降参した曾我祐信や同族の海老名氏・本間氏らは許されて御家人に列することができたが、俊重は許されずに処刑された[注釈 2][15][16]。 延慶本『平家物語』や『源平盛衰記』は石橋山の戦いの際、俊重父子が石橋山で敗走する頼朝を捕捉し「源氏の名折れ」と罵声を浴びせ、これに対して頼朝は矢を射て、俊重の草摺と俊重の子の馬に命中させたというエピソードを載せ、俊重が特に処刑されたのはその報復だったとしている[12][15][17][16]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『保元物語』に、源義朝に従った武士として荻野四郎忠義の名が見える。忠義を俊重の養父とする説もある[11][9][7]。 ↑ 『源平盛衰記』は、他に舎弟2人と子息1人も斬られたとする[11][2]。 出典 1 2 3 『厚木市史』通史編, p. 106. 1 2 『厚木市史』資料編, p. 9. ↑ 『厚木市史』資料編, p. 5. 1 2 3 『厚木市史』通史編, p. 119. ↑ 貫 1890, §=海老名氏系図. ↑ 貫 1890, § 海老名氏系図. 1 2 太田 1963, § 荻野. ↑ 貫 1890. 1 2 鈴木 & 鈴木 1984, § 厚木市. ↑ 『曾我物語』, p. 107. 1 2 『厚木市史』通史編, p. 107. 1 2 『厚木市史』通史編, p. 103. ↑ 『厚木市史』通史編, pp. 105–106. ↑ 『厚木市史』資料編, pp. 7–9. 1 2 『厚木市史』通史編, pp. 106–107. 1 2 『厚木市史』資料編, pp. 9–10. ↑ 『厚木市史』資料編, pp. 3–5. 参考文献 貫達人 著「海老名氏」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 2巻、吉川弘文館、1980年。ISBN 978-4-642-00502-9。 厚木市秘書部市史編さん室 編『厚木市史』 中世通史編、厚木市、1999年。 厚木市秘書部市史編さん室 編『厚木市史』 中世資料編、厚木市、1989年。 鈴木棠三; 鈴木良一 編『神奈川県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1984年。ISBN 978-4-582-91033-9。 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。ISBN 978-4-04-030200-3。 梶原正昭; 大津雄一; 野中哲照 編『曾我物語』小学館〈新編日本古典文学全集〉、2002年。ISBN 978-4-09-658053-0。 Related Articles