菅野光民 From Wikipedia, the free encyclopedia 生年月日 1876年[1]出生地 岡山県吉備郡新本村(現・総社市)[2]没年月日 1918年6月9日[1](42歳没[3])死没地 北海道上川郡屈足村(現・新得町[1]) 日本の政治家菅野光民かんの こうみん/みつたみ生年月日 1876年[1]出生地 岡山県吉備郡新本村(現・総社市)[2]没年月日 1918年6月9日[1](42歳没[3])死没地 北海道上川郡屈足村(現・新得町[1])所属政党 憲政会 北海道会議員選挙区 河西支庁選挙区[4]当選回数 2回[4]在任期間 1913年8月10日[5] - 1918年6月9日[4]テンプレートを表示 菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ[6]、1876年 - 1918年6月9日[1])は、日本の実業家、政治家。十勝日日新聞社長、北海道会議員[1]。 岡山県吉備新本(現・総社市)出身[2]、早稲田大学[7]政治経済学部を卒業後[8]、東京通信社勤務の後[3]、明治末期に北海道帯広へ移住[2]。先輩から依頼され[2]、小樽新聞(現・北海道新聞)帯広支局長を務めるも1912年に小樽新聞を退職し独立して十勝日日新聞を創刊[6]。1913年の北海道会議員選挙で河西支庁(現・十勝総合振興局)選挙区に出馬し初当選[5]、以降議会活動に注力[2]、1916年に再選し憲政会に所属[6][4]。 外出時には黒紋付羽織袴姿で手にステッキを持ち町中を闊歩していた[3]。三井徳宝等と「義士会」を結成して毎年演芸会を開き、会の収益を用いて赤穂浪士関係の書籍を収集、没後1921年の解散時には帯広町立大典記念帯広図書館(現・帯広市図書館)に寄贈されている[9]。またテオドール・エードラー・フォン・レルヒから一本杖スキーを教わり十勝管内の学校を巡回してのスキー講習会も展開した[10]。 1918年6月6日から十勝川上流の開発を目指すべくトムラウシ原始林地帯の探検に向かい、温泉や鉱物資源等を発見した後9日にニペソツ川合流点へ向かう最中に大型の熊と遭遇。同行のアイヌが村田銃を撃つも仕留め損ない、アイヌ3名の後ろで歩いていた際に負傷していた熊に背後から頭部を引き裂かれ死亡した[2]。遺体は左手に熊笹を掴み、右手で腰のマキリ(小刀)を押さえた状態で見つかり刀を抜く暇もなく襲撃されたと推定され[2]、都道府県議員の熊害による遭難死は光民が唯一の事例と言われている[11]。菅野の調査をきっかけとしてトムラウシ一帯の開発が進められたことも有り[1]、「トムラウシ開拓の父」とも称されている[12]。 遺体は帯広市内の開拓者墓地に埋葬されたが、富山市に住んでいた光民の一人娘の夫妻が1969年7月に北日本新聞の北海道団体旅行で十勝川温泉に宿泊する折に開拓者墓地を訪れ市役所の許可を得て掘り返し遺骨を引き取った[2]。 顕彰碑 1985年11月に、新得町字屈足トムラウシニペソツの道道忠別清水線沿いに「菅野光民殉難之碑」を建立[13]。光民が経営していた十勝日日新聞に勤務していた林豊洲が後継紙として設立した十勝毎日新聞の協力で新得町が建立し勝毎社長の林克己が題字を揮毫しており、2018年には没後100年記念の慰霊式が開催されている[1]。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 しんとく歴史散歩No.34菅野光民殉難の碑 - 新得町 1 2 3 4 5 6 7 8 菅野道議の遭難と怪談 - 林克己「熊・クマ・羆」(時事通信社 1971年)104-109頁 1 2 3 功刀真一「北海道・樺太の新聞雑誌 その歩みと言論人」(北海道新聞社 1985年)149頁 1 2 3 4 第6期任期4年大正5.8.10~9.8.9 - 北海道議会 1 2 第5期任期3年大正2.8.10~5.8.9 - 北海道議会 1 2 3 ふるさと百年十勝風土記(十勝毎日新聞社 1969年)146頁 ↑ 高倉新一郎「熊の話」 - 観光シリーズ 熊の話(観光社 1950年)12頁 ↑ 第三章一 西久保長官初の釧路視察と車内で菅野、岡本の組み打ち - 和田藤吉「北海道の新聞と新聞人」(北海春秋社 1935年)45頁 ↑ 帯広市史(帯広市 1976年)592頁 ↑ 昔は一本杖だった 菅野光民からスキー教わる 富田清さん - 十勝の人 私の半世紀(十勝毎日新聞社 1977年)262頁 ↑ 大グマ相手に槍と剣で戦った警察官が殉職、道議会議員は背後から頭を割られ…北海道が格闘しつづけてきた“熊害”の恐怖 - 文春オンライン ↑ トムラウシ開拓の父・菅野光民氏死去から100年 新得 - 十勝毎日新聞 ↑ 菅野光民殉難之碑 - 新得町史(新得町 1990年)850頁 Related Articles