萩原多賀彦
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専修大学では黒田博樹の1年後輩、同期に安藤正則がいた。3年春から1部リーグ昇格も4年秋は登板なく、1部リーグ通算14試合に登板、4勝3敗、防御率3.84。社会人・JR東日本では救援投手として2001年の東京スポニチ大会優勝を経験、同年の都市対抗野球でも救援で登板した。ドラフト会議にてヤクルトスワローズから6巡目で指名を受け、同僚の五十嵐貴章とともに入団。既に妻子がおり、いわゆる「子連れルーキー」となった。
2002年、即戦力投手として期待されたルーキーイヤーのこの年から先発登板の機会も与えられたが、結果を残すことができなかった。
右ひじ手術などの影響もあって2003年からは2005年の3年間で一軍登板がなく、球団から戦力外通告を受け引退。親会社のヤクルト本社に入社した。 その後は少年野球指導などをしながらスポーツビジネスに関わっている[1]。