落合英二 (薬学者)

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死没 (1974-11-04) 1974年11月4日(76歳没)
国籍 日本の旗 日本
主な受賞歴 日本学士院賞(1944年)
藤原賞(1967年)
落合英二
生誕 (1898-06-26) 1898年6月26日
埼玉県浦和市(現:さいたま市
死没 (1974-11-04) 1974年11月4日(76歳没)
国籍 日本の旗 日本
主な受賞歴 日本学士院賞(1944年)
藤原賞(1967年)
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落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 1974年11月4日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授

埼玉県浦和市[1]生まれ。 千葉師範学校附属小学校千葉県立千葉中学校を卒業後、仙台第二高等学校に入学する[2]東京帝国大学医学部薬学科卒業。東京帝国大学医学部薬学科薬化学教室第三代教授。アルカロイド、塩素化含窒素複素芳香環化合物について研究、その結果として、多数の新化合物を登場させた。1969年(昭和44年)文化勲章受章。

1928年(昭和3年) 東京大学 薬学博士 学位論文の題は「シノメニンの構造論」[3]

1898年(明治31年)6月26日 教育家落合初太郎の三男として埼玉県浦和で生誕、母はノブ。幼時は虚弱であったが、植物採集に熱中して健康になった。

1911年(明治44年)3月、千葉師範学校付属小学校卒業。同年4月、千葉県立千葉中学校入学。1916年(大正5年)3月、県立千葉中学校卒業。同年9月、第二高等学校二部乙類入学、2年の時安田教授の指導で地衣の新種チレア属を発見、3年の夏休にチフスに罹患するも命びろいをする。

1928年(昭和3年)12月、光代と結婚。1945年(昭和20年)5月24日、空襲爆撃によって自宅を羅災する。1947年(昭和22年)3月、このころ小石川茗荷谷の新居に移る。

1966年(昭和41年)8月、都内の喧噪を避けて鎌倉東御門の新居に移る。鎌倉に移ってからも、公的な活動は続いたが、鎌倉市民への植物同好会「ミチクサ会」では、植物好きの落合は、時には専門的な知識を発揮して指導に当たり、地元の中学・高校の先生たちとも親交を深め、自ら蒐集した変形菌の標本は、若い人々が活用されるよう、県立博物館に補完され、彼の遺志を伝えている。

1972年(昭和47年)10月、体調を崩して入院を迫られる。同年11月、虎の門病院に入院。同年12月に手術。1973年(昭和48年)1月、退院して静養。

1974年(昭和49年)7月、喜寿を祝う薬化学の会に招かれ、喜色満面で応対された。同年9月30日、宿痾が再発され入院加療に努めるが及ばず。同年11月4日、満76歳で死去。生前の勲績により、従三位に叙され、勲一等瑞宝章を授けられた。同年11月15日青山斎場で告別式が営まれた。鎌倉の霊園に墓がある。

研究業績

落合英二は、近代薬学の開祖として知られる長井長義を初代とする、東京帝国大学医学部薬学科・薬化学教室の継承者(二代近藤平三郎を経て、三代目となる)である。

落合が研究に励んだのは、昭和の初期から、第二次大戦の戦前・戦後に至る激動の時代で、物資・エネルギーなどが不足していたので、研究環境には恵まれなかった。しかし、長井長義以来の伝統を発展させ、また多くの優れた研究者を育成した。

1925年(大正14年)5月、医学部薬学科助手に任命され、教室伝統の苦参塩基マトリンの研究に着手し、翌年12月 防巳科植物採集のため台湾に渡航、危険を冒して山岳を跋渉して大量の採集に成功し、また新種を発見する。1928年(昭和3年)11月、シノメニンの構造研究により、薬学博士の学位を授与される。

1930年(昭和5年)3月、助教授となり、同年7月、ドイツに留学を命ぜられる。同年9月9日、シベリア鉄道で訪独の途に上る。同年11月、フライブルク大学のProf.Staudinger(高分子化学の発見者、1953年ノーベル化学賞受賞)の研究室で指導を受け、有機化学の精髄を胆に銘じる。

1931年(昭和6年)7月、約束の期限で、Prof.Staudinger の研究室を辞去する。 同年9月、オーストリアグラーツ大学で微量化学の原理と微量分析の講習を受け、留学の土産として微量元素分析の機器一式を購入した。同年11月、ボン大学総Prof.Pfeifferの研究室で、錯塩、複塩、有機分子化合物などの実験研修を受ける。

1932年(昭和7年)9月、2年間の留学から帰国。1933年(昭和8年)4月、国内で初めてとなる有機ミクロ分析を開始する。

1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学教授就任、薬化学講座担任を継承する。同年4月、落合教授の研究指導は、伝統の苦参塩基マトリンに次いで、マラリアの特効薬として、軍用の規那塩基研究が緊急の課題となる。 さらに新構想で世界的な業績に発展する”芳香環状異項環”の研究が開始される。

1944年(昭和19年)5月「芳香属複素環塩基の研究」により、帝国学士院賞を受章する。経験的なパラメーターを使用する定性的な理論として知られる「有機電子論」の実用化を図る。「電子論」による考察によって、芳香族含窒素異項環をN-oxideとすれば、その反応活性が著しく増大することを理論的に推論し発展させた。

1950年(昭和25年)11月、この頃より外国文献の入手が可能となる。またアコニット属アルカロイドの新しい研究分野に着目した。1951年(昭和26年)8月中旬、アコニット研究資料を収集するために岡本敏彦助教授と教室員を同伴して、那須大丸温泉周辺の山岳地帯を跋渉した。1952年(昭和27年)8月、佐渡の山地でアコニットを採集する。1953年(昭和28年)8月、本州の最北端下北周辺のアコニットを採集する。

1959年(昭和34年)3月、定年退官を迎え、最終講義の演題は、「キナ塩基誘導体の研究」、「落合英二教授報文目録」(460編の論文目録)が発行された。同年3月31日、東京大学教授退官。5月、東京大学名誉教授の称号を授与される。

学会および公的活動

脚注

参考文献

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