葉室定嗣
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| 時代 | 鎌倉時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 承元2年(1208年) |
| 死没 | 文永9年7月28日(1272年8月23日) |
| 改名 | 光嗣(初名)→高嗣→定嗣→定然(法名) |
| 官位 | 正三位、権中納言 |
| 主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨上皇 |
| 氏族 | 葉室家 |
| 父母 | 父:葉室光親、母:吉田経子(吉田定経の娘) |
| 兄弟 | 定嗣、光俊、堀川顕親、藤原光氏、親暁、円成、鷹司院按察、土御門定通室、久我通平正室、藤原高実室、大炊御門師経養女、満子、葉室資頼室、長資朝臣室、滋野井公賢室 |
| 子 | 定藤、吉田経長室 |
葉室 定嗣(はむろ さだつぐ)は、鎌倉時代中期の公卿。権中納言・葉室光親の次男。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。官位は正三位・権中納言。
承元2年(1208年)に誕生、父は葉室光親、母は藤原定経の娘(経子)[1]。兄には歌人として知られる光俊がいた[2]。建保2年(1214年)に叙爵[2]。以後但馬国、美濃国などの国司に任官した[2]。しかし、承久の乱の際、父の光親が上皇方として処罰されたため、しばらくの間、昇進は滞るようになった[3]。寛喜3年(1231年)、中宮権大進に任じられた以降は、実務官人として再び官歴を進めていき、仁治2年(1241年)に蔵人頭、同3年(1242年)に従三位、参議にも任じられた[4]。宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る[5]。後嵯峨上皇の院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。
建長2年(1250年)には出家し、法名を定然と称した。その後も度々後嵯峨院中に出入りし、院からの諮問などを受けた[6]。文永9年(1272年)7月28日に死去[7]。
その日記『葉黄記』は、朝廷側の立場から鎌倉中期という時代を活写した史料として貴重である。また晩年には浄住寺の中興を手がけたことでも知られている。
官歴
| 年号(西暦) | 月日 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 寛喜3年(1231年) | 4月14日 | 24歳 | 叙正五位下 |
| 文暦元年(1234年) | 4月2日 | 27歳 | 任右衛門権佐 |
| 4月21日 | 補蔵人 | ||
| 嘉禎2年(1236年) | 4月14日 | 29歳 | 転任左衛門権佐 |
| 嘉禎3年(1237年) | 1月24日 | 30歳 | 兼任右少弁「三事兼帯」 |
| 2月28日 | 昇叙正五位上 | ||
| 暦仁元年(1238年) | 2月27日 | 31歳 | 転任左少弁 |
| 4月20日 | 昇叙従四位下、任権右中弁 | ||
| 7月20日 | 転任右中弁 | ||
| 10月25日 | 昇叙従四位上 | ||
| 延応元年(1239年) | 4月28日 | 32歳 | 昇叙正四位下 |
| 仁治2年(1241年) | 2月1日 | 34歳 | 転任左中弁・蔵人頭、改名定嗣 |
| 2月18日 | 兼任修理左宮城使 | ||
| 仁治3年(1242年) | 3月7日 | 35歳 | 補任参議 |
| 11月4日 | 兼任備中権守 | ||
| 11月12日 | 昇叙従三位 | ||
| 寛元4年(1246年) | 4月10日 | 39歳 | 兼任大蔵卿、後嵯峨院院司 |
| 寛元5年(1247年) | 12月8日 | 40歳 | 兼任左兵衛督、検非違使別当 |
| 宝治2年(1248年) | 7月13日 | 41歳 | 昇叙正三位 |
| 10月29日 | 転任権中納言 | ||
| 宝治3年(1249年) | 1月23日 | 42歳 | 辞検非違使別当・左兵衛督 |
| 建長2年(1250年) | 1月13日 | 43歳 | 辞官、以男右衛門権佐高雅申任右少弁、聴本座 |
| 8月14日 | 出家、法名定然(心月房) |