吉田経長
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 延応元年(1239年) |
| 死没 | 延慶2年6月8日(1309年7月15日) |
| 改名 | 経長→證覚(法名) |
| 別名 | 正字:經長 |
| 官位 | 正二位、権大納言 |
| 主君 | 後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇、亀山上皇→(伏見天皇→後伏見天皇)→後二条天皇 |
| 氏族 | 藤原北家勧修寺流吉田家 |
| 父母 | 父:吉田為経、母:二条定高の娘 |
| 兄弟 | 吉田経藤、中御門経任、経長、冷泉経頼、経源、守禅、房性、三条公貫室、女子 |
| 妻 | 葉室定嗣の娘、冷泉経頼の娘 |
| 子 | 定房、隆長、冬方、頼国、資房、経雅、経耀、大炊御門冬氏室、大炊御門冬氏室、二条為藤室 |
吉田 経長(よしだ つねなが)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流吉田家、中納言・吉田為経の三男。官位は正二位・権大納言。日記『吉続記』が伝わる。
寛元2年(1244年)従五位下に叙爵。建長3年(1251年)従五位上・和泉守に叙任され、建長7年(1255年)正五位下に叙せられる。
正嘉3年(1259年)兵部権少輔に任ぜられる。同年亀山天皇が即位するとその側近として昇進。弘長元年(1261年)中宮権大進、弘長3年(1263年)美濃守を務め、文永3年12月(1267年1月)五位蔵人に補任される。文永4年(1267年)4月5日、邸宅が焼亡。7月10日には山門奉行の経長は譴責され、屏居を命じられるが、詳細は不明とされる[1]。文永5年12月(1269年1月)春宮権大進に任ぜられ、世仁親王(後の後宇多天皇)に仕え、文永6年(1269年)には春宮大進に昇任。文永7年(1270年)に左少弁に任ぜられ、文永8年(1271年)従四位下・権右中弁となる。
文永9年(1272年)従四位上、続いて正四位下に叙せられる。文永10年(1273年)には右中弁・右宮城使を務め、後宇多天皇の即位後の文永11年(1274年)に右大弁、建治元年(1275年)には蔵人頭に補任され、左大弁に転じた。造東大寺長官を経て、建治3年(1277年)参議に任ぜられ公卿に列す。建治4年(1278年)には従三位・近江権守に叙任。弘安4年(1281年)正三位に叙せられた。
弘安6年(1283年)権中納言に進み、弘安8年(1285年)に従二位に昇叙。弘安9年12月(1287年1月)兵部卿を兼ね、正応元年(1288年)正二位・中納言に叙任されるが、持明院統の伏見天皇が即位しており、大覚寺統の亀山上皇に忠節を尽くす意味で同年辞退した[2]。しかし、朝政からは退いておらず、盛んに活動している。
正安3年(1301年)亀山上皇の孫である後二条天皇の即位に伴って中納言に還任。しかし、正安4年(1302年)11月18日、亀山法皇に無礼があったとして蟄居を命ぜられている。12月5日に出仕が聴され、乾元2年(1303年)権大納言に至るが、同年辞退、出家。法名は證覚。延慶2年(1309年)薨去。享年71。