蔦井グループ
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損害保険代理業の蔦井本社を中心に2003年時点では東日本フェリー・蔦井商事・蔦井倉庫・東日本海フェリーの4社を子会社に据え[1]、各主要子会社がそれぞれに系列会社を持ちグループ化する形で形成された[2]。本社をはじめ主要企業の社長(1982年時点では蔦井商事・蔦井石油・東日本フェリー・東日本観光・蔦井倉庫・東日本海フェリー)を集めての「社長会」を形成し月1回開く形でグループ全体の経営に関する相談を行っていた[2]。
シンボルマークとして蔦井家の商号となる「◯井」があり蔦井の「井」を表しつつ尖った角のある商号は上手くいかないとの思いから丸を用いたものとし[3]、80年代頃まで傘下の東日本フェリーや[4]、東日本海フェリーのファンネルマークに用いられていた[5]。この他東日本フェリー・東日本海フェリーに共通する船舶のカラーリングとして上から黄・オレンジ・赤の三色のラインを船体下部に細く引き中央部からブリッジに向け斜めに太く引く形の[4]、通称「レインボーカラー」のデザインが用いられていた[6]。
歴史
蔦井與三吉が現在の北海道赤平市で1913年に「蔦井運送店」「蔦井販売部」を創業したことを起源に[7]、雑貨店や運送・倉庫業を営み稚内・天塩・遠別・枝幸・中頓別・士別などへ運送業を拡大し[2]、1937年には稚内から利尻・礼文島を結ぶ航路を運航する「稚内利礼運輸」の運営に乗り出し[7]、太平洋戦争で運送部門を提携していた日本通運に統合されるもセメント販売事業で商事会社としての形態を整える[2]。
戦後は1953年に「蔦井商事」を設立しその後石油・不動産事業への進出や[2]、石炭販売・倉庫事業の買収と多角化を図る[2]。また1961年には「道南海運」の経営に乗り出し[8]、1965年に同社や青森県財界の各社らによる合弁会社として「東日本フェリー」を設立[9]。前後して1962年5月にはグループを統括する「蔦井本社」が設立され[10]、1974年の與三吉の死後には長男の蔦井孝彦が[11]、本社社長となったのをはじめとしてグループ主要各社の社長に蔦井家の親族を据える形とし[2]、1981年には札幌市中央区にグループ各社が入居する本社ビル「蔦井ビル」が完成[12]、1988年時点ではグループ全体で32社を擁した[13]。中でも東日本フェリーは2代目社長蔦井政信のもとホテル・スキー場経営など関連会社を増やし事業拡大を積極的に進め、最盛期には同社傘下に十数社を擁した[14]。
1990年代に入るとバブル崩壊に伴い1992年には蔦井商事が株式投資に失敗し[15]、103億円の債務超過が生じ[16]、同社の石油部門を独立させた蔦井石油を1993年1月に合併して事務部門を共有する形で経営合理化を図った[17]。2001年時点ではグループ全体で約1000億円規模の売上高とされ、本社が東日本フェリーの44%・東日本海フェリーの6割・蔦井倉庫の5割・ツタイ商事の45%の株を筆頭株主として所有していた[15]。
2003年6月にグループの一角を担っていた東日本フェリーと子会社4社が会社更生法を申請[1]。この倒産によりグループ全体の信用力が低下[16]、各社の結束力が弱まることとなり[14]、北海道航空が単独経営に移り同年8月にはツタイ商事が経営効率化を目的に中核の蔦井本社を吸収合併し東日本海フェリー・蔦井倉庫の株を保有して新たな親会社として存続を図るといった整理が行われ[1]、2005年にはリベラが東日本フェリーの再建スポンサーとなり子会社と合わせた4社を合併[18]、3月にはツタイ商事が93億6500万円の負債を抱え民事再生法申請を行いクワザワの支援下に入り[16]、残存していた主要子会社の東日本海フェリー・蔦井倉庫は商事との取引を既にほぼ行っておらず単独経営に移行し蔦井グループは事実上解体された[14]。2007年にはグループ本社の蔦井ビルが売却され[19]、跡地には創価学会札幌中央文化会館が建設されている[20][21]。
末期に中核を担ったツタイ商事は財務内容が悪くグループ内での再建を断念し事業譲渡の後清算することとなり[22]、事業については民事再生前の2004年11月にクワザワへ営業譲渡を打診し2005年5月1日に子会社「エフケー・ツタイ」に事業を移管し道内発着フェリーへの重油販売も継続し[23]、2014年4月に石油事業を北海道エネルギーに譲渡して建材販売事業を残し10月にはクワザワに吸収合併され消滅[24]。2006年には蔦井倉庫が日本通運の完全子会社となり[25]、東日本海フェリーは蔦井本社の持株を取得して独立経営に移行[14]、ハートランドフェリーに改称され旧主要企業の中で唯一蔦井家による経営を維持している[26]。