蕗沢紀志夫
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略歴
長野県東筑摩郡芳川村[7]野溝[8](現・松本市[9])出身。東京高等工業学校附設工業教員養成所・応用化学科を卒業した後、学校現場で理科・化学を教えるとともに、30代のころに高名な応用化学者たちとの共著書を著していることから、専門性に秀でた化学者であったとうかがえる。30代の終わりごろ、戦時中に『国策線上の理化教材』を著す中で「理化教育の国策化」[注釈 4]を教育目標に掲げており、当時の皇国教育の立場に立っていた。敗戦後、民主教育の導入に伴う教師たちの思想的転向が一般的であった中で、蕗沢も例外でなかったと考えられる。
「蕗沢紀志夫」[注釈 5]と改名してからの翻訳家活動は50代に始まっていて[注釈 6]、前半生とは異なりまるで別人のようであるが、旧東京工業大学同窓生らで作る蔵前工業会の会員名簿に、蕗沢紀志夫の旧名「喜芳」が併記されていて[4][5]、喜芳と紀志夫が同一人物であることがわかる[注釈 7]。蕗沢紀志夫として手がけた翻訳は、内容においてアメリカ人女性の自立論、ナチスに迫害されたユダヤ人女性の記録のほか、小児マヒの少女の生涯などに渡っており、女性に対して視線が向けられたものが多い[注釈 8]。
- 1921年(大正10年)3月 - 長野県師範学校・本科第一部卒業[7](卒業後すぐに県下の小学校に勤務するが、まもなく上京して東京高等工業学校附設工業教員養成所に入る[8])。満19歳 ※年齢は誕生月を7月と仮定した場合(以下同じ)。
- 1925年(大正14年)
- 1927年(昭和2年)5月 - 東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鴎高等学校)教諭となる[12](のちに同校教諭として『家庭洗濯と染色』を出版[13])。満25歳。
- 1936年(昭和11年)10月 - 長男・喜志夫が誕生[6]。この時点までに、川崎忠枝と婚姻していたと考えられる。満35歳。
- 1937年(昭和12年)10月 - 東京府立第一高等女学校を離れ[14][15]、翌11月に東京府立高等家政女学校教諭[16]となる[8]。満36歳。
- 1938年(昭和13年)1月 - 当時は東京府立高等家政女学校(現・東京都立鷺宮高等学校)教諭[16]。満36歳。
- 1940年(昭和15年)5月 - 従六位に叙せられる[17](当時は奏任官待遇〈高等官五等[18]〉にあった[8])。満38歳。
- 1943年(昭和18年)7月 - 都制実施に伴う校名変更により、東京都立中野高等家政女学校教諭[19]。満42歳。
- 1944年(昭和19年)6月 - 千葉県立
匝瑳 ()中学校(現・千葉県立匝瑳高等学校)教諭となる[20][注釈 9]。満42歳。 - 1945年(昭和20年)10月 - 願いにより職を免ぜられる[21]。満44歳。
- 時期不詳[注釈 10] - ミネソタ大学で英文学を専攻[1]。
- 1948年(昭和23年)4月 - 新制高等学校が発足した当時、東京都立第十三高等学校(現・東京都立豊多摩高等学校[注釈 11])定時制(阿佐ヶ谷分校)教諭に就任[注釈 12][22]。満46歳。
- 1950年(昭和25年) - この年を最後にして旧名の「蕗沢(蕗澤)喜芳」名義での著作活動(新刊発行)が終わる。満49歳。
- 1953年(昭和28年)11月 - 翻訳家「蕗沢紀志夫」として最初の作品『変えられた性』を出版。この時点までに、紀志夫[注釈 5]と改名。満52歳。
- 1963年(昭和38年)3月 - 3月末をもって都立豊多摩高等学校阿佐ヶ谷分校が廃止になるとともに、同校を離れる[22]。満61歳。
- 時期不詳 - 錦城高等学校(小平校)教職員[24]。
- 1965年(昭和40年) - この頃、日本大学芸術学部勤務[4][6][注釈 13]。満64歳。
- 1970年(昭和45年)10月 - 当時、日本大学芸術学部講師(一般教育〈化学〉担当)[29]。満69歳。
有効な生年の検討
次の複数の異なる生年または生年月日を記した資料が存するが、蕗沢本人名義で出版する著作物にある略歴の生年(1901年)が最も確かなものであると考えられる。
- 1901年とするもの - 《出典》本人名義の翻訳出版『第二の青春――中年男の反抗』にある訳者略歴[1](Web NDL Authorities[2]の生年データもこれを出典とする)。
- 1901年生まれの場合、長野師範学校の卒業時年齢が19歳となり、卒業年齢として整合性が認められる。
- 1898年7月15日とするもの - 《出典》長野県人東京聯合会『大信濃』中、現代人物編の「蕗澤喜芳」評伝[8]
- 1903年7月15日とするもの - 《出典》『著作権台帳(第26版 本冊)』[3][注釈 2](『文化人名録』では、昭和40年版〈第12版〉も日付はないものの「明治36年7月」と記載[26]。かつては昭和31年版〈第5版〉[30]まで「明治41年7月15日」と記載していたが、次の昭和32年版〈第6版〉[31]で「明治36年7月15日」と暦年を変更した。)。
- 1906年7月15日とするもの - 《出典》『信毎年鑑(1979年版)』[9](かつては月日の限定はないが『1966年版』[25]で「明治31年」と記載していた)。
- 1906年7月生まれであれば、1921年3月長野師範学校卒業時の年齢が14歳になってしまい、不相当である。
- 1908年とするもの - 《出典》『国立国会図書館著者名典拠録』[32][注釈 14]。
- 1908年7月27日とするもの - 《出典》『人事興信録(第23版 下)』[6]。
なお、それぞれ生年の記載が異なるにもかかわらず、誕生月を記す場合は7月となっている。