蕭倣
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大和元年(827年)、進士に及第した。大中年間、諫議大夫・給事中を歴任した。寿州団練使の李琢を弾劾して正直で知られた。集賢院学士から嶺南節度使となった。咸通元年(860年)、左散騎常侍に転じた。懿宗が仏教崇拝にかまけて、朝政をおろそかにしたので、蕭倣は上疏してこれを諫めた[2][3]。
咸通4年(863年)、蕭倣は本官のまま知礼部貢挙をつとめた。礼部侍郎となり、戸部侍郎に転じた。咸通6年(865年)、検校工部尚書となり、滑州刺史・義成軍節度・鄭滑潁観察処置等使として出向した。黄河が連年洪水を起こしたため、蕭倣は黄河の河流を4里移動させるよう上奏し、2カ月の工事で完成させた。検校刑部尚書を加えられた。入朝して兵部尚書・判度支となり、吏部尚書に転じた。咸通14年(873年)、再び兵部尚書・判度支となった[4][5]。10月、中書侍郎・同中書門下平章事となり[6]、戸部尚書・兵部尚書を兼ねた[4][5]。咸通15年(874年)1月、尚書左僕射を兼ねた[7]。乾符元年(同年)11月、門下侍郎・司空・弘文館大学士・太清宮使となり[8]、蘭陵郡開国侯に封じられた[4]。乾符2年(875年)5月、死去した[9]。享年は80[5]。