蕭頃
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京兆尹の蕭廩の子として生まれた。蕭倣の孫にあたる。聡明で文章を作るのを得意とし、昭宗のときに進士に及第した。度支巡官・太常寺博士・右補闕を歴任した。節度使たちが駐屯地に家廟を建てようとしていたが、蕭頃はこれを非難する上奏をおこなって、取りやめられた。吏部員外郎に累進した。朱全忠が判官の高劭を使者に立てて、子のために蔭官を求めさせたが、省寺は前例がないとして退けた。尚書右僕射の張濬がこれを曲げて朱全忠の子を取り立てようとしたので、蕭頃は南宮の旧儀にあらずといって非難した。張濬は恥じ入り、朱全忠は感心して称賛し、蕭頃は名を知られるようになった[1]。
後梁が建てられると、給事中・御史中丞・礼部侍郎・知貢挙を歴任し、いずれも有能で知られた[1]。貞明4年(918年)、吏部侍郎から中書門下平章事(宰相)となった[2][3]。貞明6年(920年)、集賢院大学士・判戸部事をつとめた[4]。李琪とともに末帝を輔弼したが、対立することが多かった[1]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府に入ると、蕭頃は登州司戸参軍に左遷された[5][6]。ほどなく濮州司馬に移された。数年後、太子賓客に転じた[1]。天成元年(926年)、礼部尚書となった[7]。天成2年(927年)、太常寺卿に転じた[8]。天成3年(928年)、太子少保として致仕した[9]。長興元年(930年)5月20日、死去した[10]。享年は69。太子少師の位を追贈された[1]。