蕭遘

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蕭 遘(しょう こう、生年不詳 - 887年)は、唐代官僚政治家は得聖[1]本貫常州武進県

咸通5年(864年)、進士に及第した。秘書省校書郎・河東節度従事を初任とした。入朝して右拾遺となり、二度異動して起居舎人となった[2][1]

蕭遘は容姿が優れており、志操堅固であったため、李徳裕と比較されて、同期の進士たちはみなふざけて「太尉」と呼んでいた。韋保衡はこれを憎んでいた。韋保衡が宰相となると、蕭遘は過失を咎められて、播州司馬に左遷された。途中で三峡を過ぎるとき、月夜に舟を繋ぐ詩を賦した。韋保衡に殺害されることを憂慮していたところ、出会ったある人に心配しないよう慰められた。白帝祠に参詣すると、帝の神像が出会った人にそっくりだったという[2][3]

咸通14年(873年)、韋保衡が殺害されると、蕭遘は礼部員外郎として長安に召還された[4][5]乾符2年(875年)、考功員外郎[6]知制誥に転じた[7]戸部員外郎となり、翰林学士をつとめた。乾符3年(876年)、戸部郎中に進んだ[8]。中書舎人に任じられた。戸部侍郎・翰林学士承旨に累進した[7][5]

広明元年12月(881年1月)に黄巣が長安を占領し、僖宗が宮城を脱出すると[7][5]、広明2年1月(同年2月)に蕭遘は兵部侍郎・諸道塩鉄転運使に転じた[9]。僖宗に従って褒城県から成都府に向かう途中、綿州に宿営すると[7]、蕭遘は工部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[10]。4月、中書侍郎を加えられ、礼部尚書を兼ねた。中和元年(同年)11月、戸部尚書を兼ねた。中和2年(882年)4月、門下侍郎となり、吏部尚書[11]・監修国史を兼ねた[7]。5月、尚書左僕射となった[11]。中和4年(884年)、司空に進んだ。光啓元年(885年)、司徒に転じ[12][13]、楚国公に封じられた[14]

感化軍節度判官の李凝古が感化軍節度使の時溥に殺害されると、時溥は宦官田令孜に賄賂を贈って、李凝古の父の李損をも罪に落とそうとした。侍御史の王華が李損の無罪を訴えると、蕭遘は李損父子を弁護し、李損は死罪を免れた[7][5]

ときに田令孜は禁軍を掌握し、安邑県解県の塩池の利権を奪おうとしたことから、河中節度使の王重栄の反発を受け、沙苑に敗れた。光啓2年(886年)、王重栄と李克用の軍が長安に迫ると、田令孜は僖宗を連れて鳳翔府に逃れた。蕭遘はこの機に邠寧節度使の朱玫を呼び寄せて、王重栄や李克用と和睦し、田令孜を失脚させようとした。田令孜が僖宗を連れて宝鶏県に向かったので、朱玫は皇帝の廃立を蕭遘に訴えた。朱玫が襄王李熅を擁立すると、蕭遘に冊文を書かせようとした。蕭遘は病を口実に辞退し、鄭昌図に命じて書かせた。朱玫はこれが不快で、長安に帰ると、鄭昌図を蕭遘に代えて宰相とし、蕭遘を太子太保に任じた。蕭遘は病を理由に引退を願い出て、永楽県に隠居した[15][16]。光啓3年(887年)3月、永楽県で殺害された[17][18]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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