薛廷珪

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薛 廷珪(せつ ていけい、生年不詳 - 925年)は、末から五代十国時代にかけての官僚文人本貫河中府宝鼎県[1]

秘書監の薛逢の子として生まれた。中和2年(882年)、進士に及第し、尚書省の官を歴任した[1]大順元年(890年)、司勲員外郎・知制誥に累進した[2][3]乾寧2年(895年)、中書舎人となった。乾寧3年(896年)、唐の昭宗華州に行幸すると、廷珪は散騎常侍に転じた。ほどなく致仕を願い出て、剣南を遊歴した[1]光化2年(899年)、再び中書舎人となり、刑部侍郎吏部侍郎を歴任し、知礼部貢挙をつとめ、尚書左丞に任じられた[2]天復4年(904年)、昭宗が洛陽に遷都すると、廷珪は礼部侍郎となった。ときに朝士の多くが柳璨の手にかかって殺害されたが、廷珪は態度を譲っていたため、命を全うした[1]

後梁が建てられると、廷珪は礼部尚書となった。同光元年(923年)、後唐荘宗開封府に入ると、廷珪は老齢を理由に、太子少師として致仕した。同光3年(925年)9月、死去した。尚書右僕射の位を追贈された。著書に『鳳閣詞書』10巻・『克家志』5巻があり、当時に通行した[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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