藤原信盛

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時代 鎌倉時代中期
生誕 建久4年(1193年
死没 文永7年(1270年
別名 大堀池宰相、藤宰相、藤相公
 
藤原 信盛
時代 鎌倉時代中期
生誕 建久4年(1193年
死没 文永7年(1270年
別名 大堀池宰相、藤宰相、藤相公
官位 正二位参議
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家真夏流
父母 父:藤原盛経、母:小槻広房の娘
兄弟 信盛、季盛、良盛、盛厳、教盛
経業親業、覚盛、盛智、良信、盛厳、憲信、源宗雅
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藤原 信盛(ふじわら の のぶもり)は、鎌倉時代中期の公卿藤原北家真夏流勘解由使長官藤原盛経の長男。官位正二位参議。別名は大堀池宰相[1]藤宰相[2]藤相公[3]

後鳥羽院政期中期の承元2年(1208年文章生に補せられる。建暦2年(1212年叙爵建保2年(1214年七条院御給従五位上へ昇進し、建保4年(1216年中宮権大進を兼ねる。貞応2年(1223年後堀河天皇五位蔵人に補せられ、宮内少輔衛門権佐を歴任。

寛喜3年(1231年)蔵人を辞して右少弁に任ぜられる。翌貞永元年(1232年文章博士を兼ねる。翌貞永2年(1233年)に博士を辞すると、同年従四位下権右中弁文暦元年(1234年右中弁文暦2年(1235年従四位上嘉禎2年(1236年)左中弁、嘉禎3年(1237年正四位下右大弁弁官を務めながら順調に昇進し、翌嘉禎4年(1238年蔵人頭に補せられた。

延応元年(1239年参議に任ぜられ公卿に列すると、仁治元年(1240年従三位に昇進した。この叙位では同じく四位参議の藤原実光滋野井公光も従三位に昇進しているが、一度に四位参議が3人とも従三位に叙せられるのは異例のことだった[4]

その後も仁治4年(1243年正三位建長3年(1251年従二位と昇進を続けた。この間、伊予権守越中権守と地方官を歴任。建長7年(1255年正二位に昇進し、大宰大弐を兼ねる。

文永7年(1270年)8月に薨去、享年78。

人物

延応2年(1240年)の改元時に以下の3案を勘申したが、採用されなかった[5]

  • 「大応」-『史記』の「輔徳天下大応」による。
  • 「興文」-『貞観政要』の「興文布徳施恵、中国既安」による。
  • 「康豊」-『毛詩』の「自天降康豊年穣々」による。

この時、菅原為長が勘申した仁治が採用された。

官歴

公卿補任』による

系譜

参考文献

脚注

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