藤原基教 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代生誕 建久7年(1196年)[1]死没 建保1年6月28日(1213年7月17日)[2]別名 大殿若君[3]、近衛三位中将[4]、二条中将[5] 凡例藤原 基教時代 鎌倉時代生誕 建久7年(1196年)[1]死没 建保1年6月28日(1213年7月17日)[2]別名 大殿若君[3]、近衛三位中将[4]、二条中将[5]主君 土御門天皇→順徳天皇氏族 近衛家父母 父:近衛基通母:法眼最舜の娘兄弟 家実、円忠、道経、兼基、円浄、静忠、基教、円基、仁澄、実信、尊任テンプレートを表示 藤原 基教(ふじわら の もとのり)は、鎌倉時代の公卿。摂政・関白・内大臣の近衛基通の四男。大納言・鷹司兼基の同母弟。官位は従二位・右近衛中将。 基教は近衛基通の四男として誕生。11歳で元服し正五位下に叙せられる[6]。禁色宣旨を蒙った後、侍従・中将を経て従二位に昇叙。従二位叙位の翌年6月、基教が薨去された。このところずっと病に苦しみ、体力が衰えてから十日ほどで急逝されたという。父・基通の悲嘆は比喩できるものがないほどであったと記されている。[7] 官歴 ※日付=旧暦 建永1年[8] 11月26日[9]:叙正五位下、蒙禁色宣旨今日元服[10] 12月5日:任侍従 承元1年 1月5日:叙従四位下 4月10日:叙従四位上 10月29日:叙正四位下 承元2年[11] 1月20日:任右近衛中将 4月7日:叙従三位右中将如元 承元3年 1月5日:叙正三位 1月13日:兼讃岐権守 建暦2年[12] 1月5日:叙従二位 建保1年 6月28日:薨去 系譜 父:近衛基通 母:家女房 - 法眼最舜の娘 脚注 [脚注の使い方] ↑ 基教の生年は、『猪隈関白記』建永元年11月26日条に「十一歳」とある記述から逆算して求められている。 ↑ 『仲資王記』と『明月記』の記述を総覧すると、基教は28日の夜に薨去したと推測される。これに対し『公卿補任』が伝える29日説は、より正確な一次史料群の時間的詳細性に鑑み、ここでは採用しない。 ↑ 『猪隈関白記』建永1年11月26日条。 ↑ 『玉蘂』承元4年12月28日条。 ↑ 『仲資王記』建保1年6月28日条。 ↑ これは基通の嫡男・家実の初叙位と同格であり、通常摂関家の子息の場合、嫡子は正五位下、庶子は従五位上が通例。基通の次男・道経と三男・兼基の初叙位はいずれも従五位上であったことから、基教が破格の叙位を得たのは基通の特別な寵愛によるものと推測される。 ↑ 『明月記』同月29日条に「夜前二位中将基教卿薨、去比聊病惱、減気之後經十个日許頓滅云々、禪閣悲觀無物取喩云々、」とある。 ↑ 同年3月7日、摂政九条良経が急逝。これを受け、基定の兄である左大臣・左大将家実が3月10日に新摂政に就任し、同年12月8日には関白に転じた。 ↑ 『公卿補任』には基教の元服日を建永元年11月6日と記すが、信頼性の高い『猪隈関白記』『百練抄』『不知記』を参照して26日と修正されており、おそらく『公卿補任』における「廿」の字が脱落したものと考えられる。 ↑ 『猪隈関白記』同日条には、基教が正五位下に叙せられたその夜に元服し、禁色宣旨を蒙る、「基教」の名を権中納言・日野資実が選んだと記される。また『明月記』同年12月3日条によれば、基教の理髪役を源雅行が、加冠役を父である近衛基通が務めたことが記録されている ↑ 同年7月5日、父である前摂政・内大臣基通が出家の儀を遂げ、法名を行理と称した。 ↑ 同年1月4日、関白家実が母・坊城顕子の死去により解官した。 Related Articles